幻燈日記帳

認める・認めない

デクノ・ボウ

3日

目が覚めて録画をいくつか消費したあと、テレビをつけたら箱根駅伝がちょうどゴールするあたりで、大手町はまあまあな人だかりに見えてびっくりした。すぐにハイライトになってしまったから幻のようにも思えた。そしてチャンネルを変えるとなんばグランド花月からの生中継。劇場はどうやらパンパンのようだった。我々が座席を半分にしてやった9月のライヴとは一体何だったんだ…と切なくなった。

メールが届いく。通販で頼んでいたCDを郵便受けに投函したよ、という内容だった。そうして今年はじめて外に出たのだ。こんなにいい天気、外は正月みたいな空だね、公演から子供の声が聴こえるのにどうしてこんなに切ない。郵便を受け取って部屋に帰り、ナイポレの収録だった。精神的なダメージが大きい回になりましたので要注目だ!!!

 

4日

車に乗って横浜を目指す。FMヨコハマの生放送。割と直前まで「あるのかな?ないのかな?」と思っていたけど、やっぱりあった。FMヨコハマのロビーでポニーの橋本さんと「どうなりますかね〜」なんて話をする。窓の外は港町。「せっかくきたんだし」「中華街ぐらい行きたいっすよ」と橋本さんに言うと「せっかくここまできたんだからね、このまま帰るのはちょっとね。テイクアウトとかならいいんじゃないすか?」とアイデアを頂き、なるほど、と生放送終わりで中華街に向けて車を走らせた。街はいつもの正月みたい。人は多くなくて、車もそんなに多くない。ああ、人の少ない年末年始の街が一番好きだよ。道を一本間違えて、中華街の端の方を走ると、結構な人出を確認。駐車場に止めるまでもなくそのまま第三京浜に吸い込まれていくのであった。私は第三京浜が好きだよ。三ツ沢から乗るのが好きなんだ。通行料も安いし、三車線だし、真っすぐで南北に伸びているから眩しくないんだ。

勢いで桃鉄を買った。買ったらすぐ佐久間さんから「やろうよ」と連絡が来た。ワクワクしながらやったけど超負けました。

 

スペルがわからない

収録があすに控えたNICE POP RADIOの選曲のためにmixiの日記を読み返す。この幻燈日記帳はソトヅラのために作った日記だったと記憶している。当時はmixiが誰でも見れるコンテンツになるなんて思っていなかったから、クローズドだったmixiにある(全体に公開していたけど)日記は当時もエグみが強くてキッツイ。そしてそれは今読んでも新鮮なほどにエグみが強くてキッツイ。悩んで悩んで悪い方向に行っている様子が今の自分にも重なった。当時の日記に「かつてこういうことがあったということを今でもはっきり覚えている」と書いてあったのだけど、それをもう忘れてしまっていた。日記を読み返していったら、こんなこともあったんだね、これは忘れてしまえてよかった、と思えることもたくさんあったけど、小学校の先生からユニコーンのベストを借りた時にHMVの袋に入れて貸してくれたことぐらいは憶えていたかった。

 

ミスター・オラクル

アフター6ジャンクションで「すみか」を歌っているときに、とても調子がよくて、脳内インタヴュアーが出てきて「素晴らしいですね」と言ってくるので「そうですね、やっぱりライヴはいいですね」とか頭の中ではじまった途端に、E♭m7-5を弾かなきゃいけなかったのにD♭dim7を弾いていて「悪い癖が出ました。反省します。」と心の中で唱える。(2月の川辺くんとのツーマンで「視界良好」を歌っているときも似たようなことがあった気がする。すこぶる調子がよくて曲がどんどん前に出ていくような感覚。このまま続いたら私はどうなっちゃうんだ!と思った途端に間違えたのだ。)ライヴ自体はとてもうまく行ったと思う。20代中頃のライヴを思い出しながら歌っていた。「アナザー・ストーリー」を出してよかった。と思う。

 

人のいない東京を車で走って家についた。恋人は天ぷらをあげようとしてくれている。私は風呂に入りいろいろ考えた。散々な一年だった。そう思うためにいろいろ考えた。多くのインタヴューで今年は散々だ!と言い散らしたが、藤原さくらさんの「ゆめのなか」と後藤輝基さんの「悲しみSWING」の編曲の仕上がりは、しばらく経って人生にきいてくる気がするのだ。ああ、一年が終わる。鏡の中の私をみて急に髭を剃ろうと決めた。クソタレな気分になろうとした自分を蹴っ飛ばすために髭を剃るのだ。

https://open.spotify.com/track/3IfHP1xvnX93f1BajLrcZv?si=PLLj5WmASd-V9c0nzy3qDg

 

毎年恒例になっていた高校の部活の集まりもそれぞれが大学を出て、仕事を持ち、家庭を持ち、年々規模が縮小していって、ここ5年ぐらいはアウトロー4,5人の集まりになっていて今年の開催はどうなるのか、と思っていたのだが、今年は結局ZOOMでの開催になった。アーカンソーにいるI、アングラDでおなじみM、先輩のS、そして恋人も加わってわいのわいのと話す。私は途中で眠ってしまったけれども、あとできいたら合計50試合もオンライン大富豪を楽しんだそうで、いいな、と思いました。みんながそれぞれ今年の抱負を言うくだりがあって「売れる、売れなかったら痩せる」と言っておいた。ナイポレでも話したけど「売れてないからしたら売れてて、売れてるからしたら売れてなさすぎる」のだ。スカートは10年そうしてきたので、心から声だしていこうとおもう。売れたい!せめて環八の内側にすみたい!と。スカートのスタッフグループLINEには「とにかく去年はろくに曲がかけなかったので3月までに5曲は書きたい」といったような抱負も書き込んだ。

 

カーテンすらあけないまま元日が過ぎていった。

ヌレ・テニ・アワ

荒れ放題だった部屋に手を少しだけ入れる。そうしては手が止まる。また溢れ出したレコードや漫画たちに目をやる。半年ぐらいシールドすら刺していないコロンビアのエレピアンの上に乗せた加湿器に電源を入れると、エレピに睨まれたような気がした。

夜中になってポストに荷物を出しにいくついでに郵便受けをみるといくつかの封筒が入っていた。そのうちのひとつが石塚くんからで、台風クラブの新譜、Tシャツ、そして手紙が入っていて本当に嬉しくなった。

以前、ラジオでミンガスをかけて、そのサイドメンを紹介するときにエリック・ドルフィーの名前を挙げたら放送終了後に母から「エリック・ドルフィーの「ラスト・デイト」は最高だった。ずっと忘れてたけど今思い出した。」とLINEが入った。サックスってそんなに興味がなかったからジョージ・ラッセルとかコルトレーンのアルバムに参加しているのしか聴いたことなかったけど、そこまで言うなら、と買っていたのを、この年の瀬にようやく聴いた。1曲目がとにかくダウナーな感じで、焦点が合わないような、うまく立てないような、絶妙なアンサンブル。ちょっと重たいな、と思っていたはずなのにどんどん引き込まれていった。「You Don't Know What Love Is」を葬式でかけろ、というので了解した。祖母が亡くなったときに、葬儀会場でずっと「Amazing Grace」がかかっていて、本当に悲しくなったことがあった。そのときに母と「我々が死んだ時は絶対にこうならないようにしないと」と話し合ったのだ。雰囲気のために流れる音楽が、誰からも雰囲気だとすら思われないその光景が頭から離れない。だから私の(かつて)iTunes(とよばれた現・ミュージック)には「葬式」というMax Roachの「Equipoise」やThe Beatlesの「Your Mother Should Know」が組み込まれたプレイリストがあるのだ。

アフター6ジャンクションの生放送に向けて弦を張り替える。今年は何回ギターの弦を張り替えただろうか。久しぶりに張り替えたFG-180はある時、弦が切れてしまってひと月ちかくそのままで部屋に転がってしまっている。

エリック・ドルフィーの演奏が終わって、拍手がやんで、人の声がして驚いた。"When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again"と言っているそうだ。秋には、年末には、来年こそは、と考え続けていたら1年が終わった。過ぎていってしまった。でも過ぎることができたのならそれでもう上等なのかもしれない。私はこれから浴槽を磨くことができるだろうか。「自動」のボタンを押せるだろうか。浴槽は磨くし、自動のボタンも押せる。でもそれができたらもうバッチリ。あとはいつものようにするだけ、そう思うことにした。

雪が降る町

こんな風に年が暮れていくものなのか。数日前、Instagramでストーリーズをみていたらココ吉矢島さんのストーリーズに六本木のミッドタウンのスケートリンクが映っていて思い出した。先月の鈴木慶一さんのライヴで、アンコールでステージの後ろの幕が空いて夜景がみえる、というビルボードの演出を眺めていて、その夜景の足元に誰もいないスケートリンクが見えた。そのリンクの氷を整備する車が居心地が悪そうにゆっくりと走っていたのが本当によかった。それを書き残しておかなくては。

アルバムが出たというのに地方キャンペーンもなし、インストアライヴもなし、取材はギリ対面で出来たけどリモートも増えた。でも椅子が外せるホールで、スタンディングのマックスキャパならその50%だから、っつって普段どおりの椅子の数でぎっちりお客さん入れてライヴやってるところもある、という噂も(でも客席はマスクの上にフェイスシールドが必須だったそうだ)きいた。MVの撮影のときに「やれたらいいね」と日程だけおさえていたスカートの忘年会は、もちろんZOOMでの開催になったし、バカ話のなかの1割ぐらい、真面目な話にもなったし2020年だなあ、と思った。車で30分もかからない実家の母にLINEで「今年は帰らぬ」と告げたが、Twitterを見るとやっぱり帰省している人はいるし、もうそれは仕方がないのかもしれない、と思うことにした。

FM802のマンスリープログラムを担当していた。「アナザー・ストーリー」の紹介に加え、「冬の名曲弾き語りをやってほしい」と打診を受けて、数日間はKiroroの曲しか頭に浮かばず本当に焦ったがなんとかやりきった。ピチカート・ファイヴ「メッセージ・ソング」、ROCKY CHACK「SNOW」、NRBQ「Christmas Wish」、そしてユニコーン「雪が降る町」。一番言いたいことは音楽になるはずがない、と思っていたけれども2020年には「あと何日かで 今年も終わるけど 世の中はいろいろあるから どうか元気で お気をつけて」という一節がそれになった。いろんな気持ちがあって、伝えたいことがあるけれども、今年はこのひと節に尽きる。

パラダイス線に乗って

28日

 

鈴木慶一さんの音楽生活50周年ライヴにゲスト・ヴォーカリストとして参加。同じく参加した45周年から5年も経つのか。あのときはTJNYのリリイベが当日かぶっていて、アンコールのリハを出来ず会場を一旦飛び出して、ぶっつけ本番でアンコールの「Eight Melodies」に参加だったんだけど、優介のアレンジで曲が進行していって、真後ろにいる僕のアイドルでもある、矢部浩志さんと高橋幸宏さんが同時に同じフレーズでフィルイン(優介の指定フレーズ!)を叩いたときはさすがにどうにかなってしまうかと思った。あれから5年!あのときはキャリアを通してぱいもライダーズもビートニクスもコンスパもソロも、というライヴだったけど、今回は『MOTHER』の再現、そして再訪ライヴ。事前にオリジナルのMOTHERと一緒にRevisited版も渡されていて、よくメールを読みもしないでRevisited版でヴォーカルの譜割りを取って行ったのだが26日のリハーサルで「The Paradise Line」の演奏が始まった瞬間にオリジナルで演奏される、と知って今年一番の冷や汗が出た。急いで頭に叩き込み直して、当日のリハーサルでガンガンに譜面を見ながらだけど、歌えて本当に安心する。楽屋では優介とどついたるねんの新曲について話したり、慶一さんとゲームの話で盛り上がったりしたのがなんとも楽しかった。終演後、慶一さんが乾杯の後だったかに「皆さん!音楽をこれからも続けてください!」と大きな声で言ってくださったのがずっと残っている。

 

煙が目にしみる

21日

長野は白樺湖で行われるライヴに誘われて、実家の車を借りてひとり長野に向かう。父親が釣りに行くために買ったグランビアはとにかくタフなので広い車内を持て余しながらも長野に向かったのだ。このグランビアはCDしか聴けないので部屋にあるCDを何枚か、さらに数枚のCDRを焼いた。近々のあれこれをみていると心が潰れそうになりながらも、かと言ってここで「ヤダヤダ!行きたくない!」ってなっても地獄のような気持ちで家にいるだけなんだろうな。俺も気をつける、みんなも頼むから気をつけてくれ、そう言い聞かせることしかできない。

昼食を食いっぱぐれていたのでどこかいいところないか、と適当に大きめのSAに入ったが魅力的なものはなく玉こんにゃくだけ買った。青空が広がり、玉こんにゃくもまた然り。美しい光景だ。またしばらく行ったSAではおやきを買った。ひとくち食べた時はなんて愛想のない皮なんだ!と思って食べていたが、ナスの餡が美味しくて結果的には上々。車は順調に関越を抜け、みたこともない道をすり抜けて行く。立科町に入ったあたりでグッと冷え込んだ。「もうもう」という牧場?を見つけ、少し休む。冷たいミルクを薄着で流し込み、遠くに見える街を眺めた。

ゆっくり向かっていたから5時間近くかかって白樺湖についた。知らない風景というのはいつも楽しい。車を止めて宿に入ろうとすると、会場の方から音楽が聞こえた。低音の方しか聞こえないけど絶対これ"PLASTIC LOVE"だし、東京フレンドパークに想いを馳せる。部屋に入り、シャツを脱ぎ、ジーンズを脱ぎ、窓を開け、湖を眺めた。雑にテレビをつけ、布団に入ったらうとうとしてしまって、30分後あまりの寒さに目が覚める。体の芯から冷えたところにヒートテックを装着、セーターを着込みまた布団に入って暖をとった。宿の食事の時間になり、食堂へ向かう。共演者の方のお子さんなのか、一般のお客さんのお子さんなのかわからないけど「ふとってる」、と続けざまにふたりから言われる。普段いかに自分が安全圏で行動しているか、ということを思い知らされてなんとも言えないぐんにゃりとした気持ちになった。苦手だったはずの魚がでたけど危うげながらも平らげた。今年で33です。窓際の席でまだ冷えから解放されない私に「コロナ後、初ライヴですか?」と主催の方から尋ねられ、一瞬たじろいでしまって「そうです」と行った後、気がついて一言付け足した。「弾き語りでは、ね!」 。私はどうしてたじろいでしまったのだろう。帰り道にはロビーでくつろぐさっきの子供に「ふとおじさん」と呼ばれ、一緒にいた10代中頃のお兄さんだったのだろうか、彼が慌てて口を塞いで「わーっ!す、すみません!問題児なんですっ」と言われて漫画みたいだな、と思った。宿にある少し大きめの風呂で全てを清算する。

 

22日

真夜中に目を覚ましたりしながら気がついたら朝になっていた。8時に朝食を摂り、ぼんやりして部屋でギターを弾く。体がだんだんここに馴染んできたような気がする。マネージャーと合流して湖畔の会場入り。風が強く、とても寒い。リハーサルも早々に切り上げるべきか、それともちょっとでも歌っておいてあっためるべきか悩んだが、結局何曲かやった。本番は寒く、眩しく、風が強く、焚き火の煙に悩まされたが、久しぶりの人前でのライヴということもあり、燃えた。ホテルの部屋では寂しい曲ばかり練習していたが、結果的に強めの曲ばかりが並んでしまったのは果たしてよかったのだろうか。終わってマネージャーと出店に向かう。若人に声をかけられて嬉しかった。いくつかある選択肢の中からラーメンを昼食に選んだ。楽屋に戻って寒さに震えながらラーメンをすする。Salyuさんの演奏を見て、りんごジュースを啜り、宿に戻りマネージャーと別れた。少し行ったところに温泉があるというので車でそこに向かった。44℃の熱い温泉が冷えた体に染み入る。湯から上がり、ソフトクリームを食べてテラスに出た。テラスの正面は枯れた森で、川の流れる音だけが聴こえた。