幻燈日記帳

認める・認めない

パラレル風呂

9/19-22

ライヴは延期になってしまったのだが、もともと参加できないはずだったムーンライダーズのリハーサルの初日から参加できることになった。頭が働かないような日に仕事が入ったのは不幸中の幸いと言えるだろう。このまま部屋に居たらやりきれなさが募ってしまっていたはずだ。今回のライヴはレコ発ライヴ。そのアルバムからほとんどの曲を演奏するという攻めたライヴだ。僕自身、いつものリハーサルより悪戦苦闘するが、いつものライヴのように流れの中に身を任せるしかない。本番当日のリハーサルまで毎日進化していった。今回は岡田さんが不参加だったので、LINEを送ると「留守の間は頼むね!」と返信が来る。普段だと行き帰りはセットリストをプレイリストにして、それを聴いたり、リハーサルの音源を繰り返し聴くのだけど、それらは家の作業に回して、車の中だけはムーンライダーズを全曲シャッフルにして聴いていた。その方が練習になる気が何故かしたのだ。そして旧曲に混ざって時々「It's the moooonriders」の曲がかかる。その立ち姿を見極められたら嬉しい。

リハーサルの帰り道に優介と「9月の海はクラゲの海」について語り合う。比較的そういう話はめちゃくちゃするほうだと思うけど、なんだか学生の頃を少し思い出していた。

リハーサルが終わってはロイヤルホストに向かい詩を書いた。蓮見くんから送ってもらった資料を読みながら、時々漫画を読みながら作業をする。鼻先の人参としてのおいしい食事を摂る。この1週間で私はロイヤルホストに2万は遣った。そうしないと救われない魂や物語があるのだ。

 

9/23

書き上がった詩を手に新大久保のフリーダム・スタジオで歌入れ。はじめてのスタジオ。あの『フリーダムのピチカート・ファイヴ』のフリーダム・スタジオだ。今回録音で入ったのは3Fのブースがひとつあるスタジオだった。思ったより時間はかからず終わったのだが、それには理由がある。どちらの曲も2分ない曲だったからだ。

終わってひどい雨だったが一芳に行く。かつては大行列を誇ったタピオカドリンクの専門店だ。新宿にも渋谷にも吉祥寺にもあったがコロナ禍とブームの終焉により店舗は激減。現在は大久保と浅草にしかないようだ。ひさしぶりに飲めて気分が晴れる。歌入れが全曲終わった開放感もあるかもしれない。

 

9/24

ムーンライダーズのレコ発ライヴ。楽屋に入ると良明さんが譜面を広げて博文さんやくじらさんと意見を出し合っていた。はじめての人見記念講堂は広く、残響が多く、決してやりやすい環境ではなかったが、「S.A.D」でくじらさんが爆発しているのを見て、本当に嬉しくなった。あとで配信の動画を見せていただいたのだが、まさにその瞬間がカメラに抜かれていてこんな顔していたのか、と驚く。ライヴは緞帳が降り、客出しの最中もインプロヴィゼーションが続いて、再び緞帳があがると空っぽの客席があった。言葉にできない感動があった。(通常、ライヴはお客さんがいるところに我々が入り、お客さんに見送られて帰っていく。事前のリハーサルもあるし、ことが済んだら片付けなどをしにまたステージに戻るから)空っぽの客席に感動したわけではない。楽器を持ったまま緞帳があがり、誰もいないが熱を残した客席のように見えてとても異質なものに感じたのだ。

 

9/25

昼、NICE POP RADIOの収録。とんでもないスケジュールの中、選曲はうまくまとまったのだが、あとで放送を聴いたらなんかえへらえへらしてる自分がいて改めよう、と心に強く刻んだ。

夜は神田明神ホールにSouth Penguin×街裏ぴんく×進行方向別通行区分のスリーマンを観に行く。すごいライヴだった。見たことない景色だった。あとで調べたら進行のライヴを観に行くのは6年ぶりとかだったみたいだ。失礼な話、もう少し懐メロっぽく聞こえてしまうんじゃないか、って思っていた部分もあったんだけど、まったくそんなことなかった。異端でありポップ。

帰り道にアナーキー吉田氏と遭遇。ジョニー大蔵大臣は怪我のため来れなかったそうだ。10/9のワンマンライヴの成功を神田明神に祈願した。

 

9/26

最後のダビングで管楽器に登場していただく。詳しくかけないけど超いいっす。共同でアレンジ考えてくれていた方も大変喜んでくれていたはず!テープ操作のエフェクトを1曲録音して、そのままスタジオに残り、エンジニアを加瀬さんに変わってもらってもう1曲、ダウ90000のオープニングを録音。葛西さんはそのまま葛西さんの作業場に向かいミックスを始めてもらう。

 

9/27

ラジオ収録。国葬による混雑を予想して30分はやく家を出た。10分早く着いた。どうしてこんなことに。収録は無事に終わる。肝いりというと変だけど、気合い入れた回の収録でもあった。10/15放送のGOODYEAR MUSIC AIRSHIPは「シティポップ番外地」と第してお届けします。うまく話せているといいんだけど。そこから神保町で打ち合わせのため神保町に向かう。レコード屋を見たり、うどんを食べたりしていると打ち合わせが神保町じゃなくて麹町だと気がついた。慌てて車に乗り込む。ナビが九段下の方にいけ、というので面白半分の気持ちで向かう。警備がものものしくショックを受ける。どうしてこうなっているのか本当に意味がわからない。ちょっと遅刻してしまう。打ち合わせも快調に進む。

 

9/28,29

葛西さんのスタジオでミックスに立ち会う。あ〜でもない、こ〜でもないと口を出しながら、自分の理想のものになっていく。ぎりのぎりまで粘りながらいい落とし所を探ってもらう。「この音の質感がナントカでこのギターのXXkhzあたりを1.2dbぐらい下げようか〜〜」とか言えたらいいんだけど、「ここ、もうちょっとなんというか、柔らかい感じになりませんかね」とか言うから情けない気持ちになる。

 

9/30

NICE POP RADIO収録を閉店後のココナッツディスク吉祥寺店で敢行。全ての機材を広げたところでUSBのケーブルがないと気づき慌てて家に取りに帰る。矢島さんとディレクターY氏を待たせる展開に泣きそうになりながらもう一度吉祥寺通りから井ノ頭通りを右折しようとした瞬間、奥に「一芳」の看板が見えた。吉祥寺に一芳が帰ってきた。うれしいのだけど現実である自信がなくて泣きそうになった。もう離さない。

ナイポレの収録はとても楽しかった。いくらでもこうやって話せそう。ココ吉に来たのは、中3だったかの頃、エチケットレコーディングのコンピを取り置きしてもらったのが最初だったはずだ。その時は高島平の自宅から成増までバスに乗り、成増からまた吉祥寺へバスで向かった。これまで乗ってきたバスは大通りを行くものばかりだったから、上石神井の駅前の通りが狭すぎて衝撃を受けたことを今でも覚えている。実家を出て最初にその街に住むことになったのだからなんとも奇妙だ。そうして私は当時まだそんなに店舗数がなかったグラニフでTシャツを買い、取り置きしていたCDを買い、テクノデリックのLPを500円で買った。グラニフはかつてanvilのボディにプリントされていて、大柄な私でも入るサイズがあったのだが、大学に入ったあたりで自分の成長を止められなかったことと、ボディが変わってしまったことが原因で買わなくなってしまった。段々と世界から弾かれていく、そういうことを実感したいくつものうちのひとつだ。

 

10/1-2

ミックスチェック。全曲終わってホッとする。家に帰ってもう一度聴いてみると、途端にそれまで気になってこなかったノイズとかが気になりだす。バランスを見直したくなる。葛西さんに泣きついて翌朝、次の仕事が始まるまで時間を頂いて処理してもらうことになった。

 

10/3

チェックしていくと全部で8曲も直しがあった。泣きそうになりながらも根気強く葛西さんが対応してくれてなんとかなった。が、数曲翌日に持ち越し。

 

10/4

13時のマスタリング開始ギリギリまで葛西さんのスタジオで粘る。粘った結果、取れないと思っていたノイズの原因が解明。少し遅刻してマスタリングスタジオに着いた。事前に送ってくれていたデータを元に1曲目のチェックが早速開始される。小鐡さんのスタジオは本当に音がいい。ミックスの音源をまず聴いて、そこから小鐡さんが化粧してくれた音に切り替える。ミックスの表情を尊重しながら新しい面を引き出してくれる。マスタリングは個人的にはメロンを桐の箱にいれる作業だと思っている。学生の頃になんとなくそう思って、そのまま来てしまったのだが、どうやら大きく間違ってはいないようだ。ときどきメロンを切って皿に盛ることがマスタリングだと思っている人もいるようだが、小鐡さんのマスタリングは学生の頃に思い描いていたそれだった。後はメロンを受け取った人が冷やしたり、スプーンでくり抜くなりなんなりすればいい。8曲目までやってその日の作業は終了。

 

10/5

マスタリング2日目。全曲の調整が終わり、通しで聴いて確認していく。1箇所だけ曲間の見直しが入ったが、他は全く問題なくまたいいアルバムが仕上がった。スランプだったし、もっと苦悶したようなみっともないアルバムになったかもしれないけれども、そうはならなかった。トワイライトの延長みたいなアルバムになっちゃうかもなって心配していたけれど、そうはならなかった。でもどうしてそうならなかったのかがまだわからない。出来上がるまでも何度も何度も聴いたアルバムになった。毎度のことだけど、出来上がっても何度も何度も聴いている。

 

10/6

医者にかかる。血液検査の結果も比較的良好だった。診察を終えて、荻窪のルミネの地下で昼食を漁ったのだが、なんかテンションあがらず吉祥寺に向かった。道中できあがったばかりのアルバムをイヤフォンで聴く。久しぶりに電車に乗る気がする。窓の外を眺めると、等間隔に並ぶ送電塔がくもり空に消えていく。いいアルバム。妻のリクエストでバインミーを買って帰った。

夜はダウ90000を観に行く。書きかけの台本を送ってもらって詩やオープニングを書いたから、文字で見ていた言葉がこうやって形づいていくのか、と興奮した。最終的には決定稿も送ってもらっていたのだけど、詩も完成させた後だったので、なんとか自制をかけ、決定稿を読まずに当日を迎えられた。ファンとしてはドキドキしながら物語の終わりを待つのだが、クレジットされている身分からすると、その後の展開から考えたら書いた曲が合っていなかったらどうしよう、とヒヤヒヤしていたのもまた事実だったが、どうやら杞憂に終わって最高に晴れ晴れした気持ちでシアタートップスを後にすることができた。11/1から配信開始です。エンディングテーマのギターソロはシンリズムくんに弾いてもらっています。

【動画配信】ダウ90000「いちおう捨てるけどとっておく」 | ぴあエンタメ情報

 

10/7

初回盤につく弾き語りを少しずつ録音していく。いろいろ試す。2時間ぐらいみっちりやったら疲れてしまった。

 

10/11

夜、渋谷のWWWXに出かける。アントニオ・ロウレイロとハファエル・マルチニのデュオと長谷川白紙くんのライヴを観に行くためだ。部屋を出て、耳栓を持ってないことに気がついて戻る。白紙くんのライヴは音が大きいかもしれないから念のため。そうしてまた部屋を出て、廊下を歩いているときに突然(電車の中で「SONGS」聴きてえ……)と思い、また戻り、イヤフォンを手に持って家を出た。夜の上りの電車は空いているから最高なのにこの日は少し混んでいた。景色がぼやけていて、そういう景色に「SONGS」はとても気分良くハマった。渋谷の駅で降りるなんていつぶりだろうか。昔みたいな渋谷を歩き、WWWXの階段をヒーヒー言いながら登っていく。当日券を買い求め、会場に入るとすでに結構人が入っていた。葛西さんにもばったり会えた。ダウ90000の公演を見た葛西さんとほんの少しだけ「よかったよね!」と交わしあった。フロアーに向かい、こういう時間を持て余しているときはどうやって過ごしていただろうか、と心細くなる。白紙くんのライヴは最高だった。queさんがアニメーションを制作している花譜さんの「蕾と雷」を作者である白紙くんが歌っていてぐっと来た。

【組曲】花譜×長谷川白紙 #98「蕾に雷」【オリジナルMV】 - YouTube

発表されたときは少しだけ意外にも思えていた組み合わせだったけど、なるほど三途の川の対岸にミナスが広がるようなライヴだった。ロウレイロとマルティニのライヴは極上だった。特に3曲目があまりに素晴らしく、物販で「3曲目って……どのアルバムに入っていますか……」って訊きそうになったのだけど、訊いたところでわからないだろう、シャイボーイが顔をだして結局マルティニのアルバムを3枚買うことになった。後悔はもちろんない。(家に帰ってアルバム聴いたけど多分入っていなかった……)

 

8月と9月

8/6

ライヴの予定だったがなくなってしまった。療養から明けてすぐ、喘息がひどくなり、あまりまともに歌えない気がしていたから本当のことをいうとちょっとだけ安心してしまった。

 

8/7

自宅療養期間中、すこしずつ進めていた部屋の掃除の成果がなんとか出る。CREAの取材で本棚を見せてほしい、というものだ。なるべく細かく本棚を確認して、写ると問題がありそうなエロ本のたぐいは裏返しにする、などの対策を取った。編集部さんが手みあげをくれてたが、妻とのふたりじゃ食べ切れそうになかったのでそれぞれの実家にいくつか持っていくことにした。

 

8/9

朝から夜にかけて某撮影。それが終わってからレコーディングに向かった。「架空の帰り道」の録音。もともとは7月中に録音するはずだったのだが、コロナ感染のため延期を余儀なくされ、なんとか都合があう日を見つけたらここしかなかったのだ。信じられないほどの疲労感の中、もともとは歌まで録るという話だったのだが、無理だ、と、葛西さんと旧知の仲であり、スカートも何度か録ってもらっている加瀬さんを翌日に呼ぶことに成功。それでも終わった頃にはもちろん日付が変わっていたような記憶がある。

 

8/11

無事納品。

 

8/19

スパークスを観にソニックマニアへ行く。素晴らしい演奏と歌唱にクラッとする。

 

8/25,26

レコーディング。Demo1とDemo2ともう1曲。手練たちの演奏によりベーシックがサクサク進んだのでもともと2日に分けて録るはずだったが、1日で終われた。翌日はボーイを呼んでパーカッションのダビングやギターのダビングをする。

 

8/27

Aマッソの単独を観に行った。ほぼ同年代のAマッソが毎年単独をやってくれていることは私にとって大きな励みになっている。

 

8/某日

後藤輝基LIVEマカロワのリハーサルが後藤さん不在で始まる。瞬間瞬間が刺激的で、同期でライヴやるのすらはじめてだったけどこんなに有機的なものだったということすら知らなかった。いつもと違うメンバーでスカートの楽曲を演奏しているのも不思議な気分だった。初日は下準備にくわえて朝からシティポップのラジオの収録があったため終わりの方にはうつらうつらしてしまって申し訳なかった。

 

9/某日

アルバムジャケットのイラストレーターの方と打ち合わせ。いつものアルバムとは少し毛色や成り立ちが違うから好きな漫画家さんに頼みました〜だと事故が起きそうな気がして、森さんと打ち合わせしながらどの方がいいか決めた。森さんが大量に用意してくれた近年のイラストレーションの雑誌を眺めながら決めた方。絶対いいものになる。しかしこの段階でまだタイトルが決まっていないため、モヤッとした打ち合わせにはなってしまった。

 

9/某日

歌入れに間に合わすために1曲歌詞を書き上げなければならないので職場であるロイヤルホストへ向かう。パラティーを飲みながら古いアフタヌーンの漫画をいくつか読む。鬼頭莫宏さんのヴァンデミエールの翼を読んだ。久しぶりに再読したからとんでもない気持ちになれたのは言うまでもないんだけど、裏表紙に書いてあった定価が480円で驚いた。えっ、じゃあラブロマは?神戸在住は?とか年代順に見ていったんだけど熊倉献さんの「春と盆暗」の裏表紙を見たら定価が書いてないものだった。なんとも言えない喪失感が胸に残った。

 

9/4

トーベヤンソン・ニューヨークで集合写真を撮ろう、ということになった。NO MUSIC, NO LIFEの平間至さんの写真館での撮影。三宿は駐車場が全然なく、やや遅刻してた分、さらにそこに上乗せさせられることになった。平間さんとは初めてお会いするのだけれど、「It's The Moooonriders」の写真を撮られたのも平間さんだったとご挨拶をさせていただいて初めて気づくという無礼をぶっこく。みんなに雑談目当てじゃなく集まるのはとても久しぶりで楽しかった。撮影は順調。平間さんは不思議な音楽に造詣が深く、まったく聴いたこともない珍妙な音楽をいくつか紹介してくれた。

残ったメンバーの何人かに「SONGS」というアルバムタイトルはどう思う?と訊いたら「(そりゃSONGSはチラつくけど)いいと思うよ」と背中を押され、正式決定。

 

9/5

アルバムが加速度を増す。ジャケットの打ち合わせも済んだ。全12曲で組んだ曲順を提出したりするのだが、いろいろあって「もう1曲いる」という判断が自分の中で下る。俺はやるしかないのよ。

 

9/7

後藤さんのライヴのために前乗り。本当は当日朝に出る予定だったのだけど、後藤さんのコロナ療養があけるのが当日だったため、早めに入ってリハーサルの時間を多く割こう、そのためには前乗り出来る人は前乗りすることになったのだ。久しぶりの大阪、少し気合が入り、昼過ぎぐらいに到着。レコード屋をいくつか見るつもりでなんばまで行ったのだが、目当ての店の2つは定休日だった。愚者。近くを検索すると何軒かレコード屋があったので覗いてみると、少年隊のステッカーを購入することができた。晩ごはんに行こうと思っていたお店もほとんど閉まっていてなにかを呪ってしまう。やけになって地下街にあった中華料理屋で夕食。俯瞰で見るような寂しい夕食だった。

 

9/8

ライヴ当日。Kyutaroでうどんをひっかけてから向かう。宿に戻り楽器を担いでビルボードに向かうのだが、なかなかたどり着けなかった。なぜか知らない街の知らないライヴハウスということを忘れていたのだった。リハーサルの開始時間も早まり、ツーステージ。ハードな一日を覚悟したのだが、後藤さんを交えたリハーサルがなんと一回でキマる。プロフェッショナルを間近に浴びたような気がした。一瞬一瞬があまりにもスペシャル。ちょうどできたての藤井隆さんの「Music Restaurant Royal Host」もご恵投いただく。楽屋でメンバー全員でそのあまりにもなクオリティに驚き、私はクレジットされていた東郷清丸にそっと嫉妬するのであった。

 

9/9

ふたたびKyutaroでうどんをひっかけ、ToToToRecordに向かう。「ワッショイ -最後の楽園-」という謎の7インチを購入。家に帰って聴いたのだが、本当によくわからなかった。なんで買ったのかがわからない。わからなくなりたかったのだろうか。

東京に戻り、ダウ90000の蓮見さんと打ち合わせ。打ち合わせといってもファミレスだったので雑談が中心。いいもの作るぞ、と気持ちを新たにして、スケジュールのヤバさを再確認して身体じゅうの何かが爆散。

 

9/10

歌入れ。入ったスタジオの下の階が焼肉屋で「絶対ここで晩飯を食うんだ」を合言葉に録音を開始。進行状況は悪くはなかったのだが、60分したら店出る、とかそういう条件つけないとのうのうと焼き肉は食えないかもしれない、という結論に一度なりかけたのだが、後から合流したスタッフが「60分とか時間決めたら大丈夫でしょう」というので悪魔の気持ちで階段を朗々と駆け下りた。ところが無慈悲にも「満席」。そうだった土曜日だった。落胆する我々に葛西さんが提案してくれたのが「かっぱ」というもつ煮込みしか出してない店だった。そしてそこの白米が異常なうまさで確実にいままで食ってきた白米の中でも相当上位のものだった。結果的に極上の気分にたどり着いた我々は2曲分の歌入れを完了し、私は私で歌テイクを選んでもらっている時間に悶ながらも新曲を一曲、いい形に持っていけそうなモチーフをかきあげた。

 

9/11

夕方のナイポレの収録に向けて準備をいろいろする。サニーデイ・サービス特集。収録を無事終え、ひと眠りしてリハーサルスタジオに昨日のモチーフを発展させに行こうとしたのだが、布団に入ったところで「逆に今行ったらいいんじゃねえの」と気づき、もそもそと部屋を出る。数時間の作業で完成。落ち着かないビート感を持ったいい曲ができた。

 

9/12

映画「アザー・ミュージック」の上映後トークに呼ばれる。スケジュール的には断った方が絶対よかったのだが、なにか気持ちを楽にしないとどこかでぶっ壊れる、と判断、快諾に至った。アメリカのレコードショップ、アザー・ミュージックの生涯を描いた作品で、音楽で暮らしていくことのままならなさと音楽のある暮らしの豊かさに胸が張り裂けそうになった。現在公開中。みんなも見て。

映画『アザー・ミュージック』オフィシャルサイト

 

9/13

Tokyo FMでGOODYEAR MUSIC AIRSHIPの収録を終え、新宿に一度出て京王の北海道展に顔を出す。「俺はこの後超絶名曲を書くのだから2700円のステーキ弁当を買っても問題ない」と2700円のステーキ弁当を購入。バカでかいざんぎも買った。そのまま、スカートで入るために取ったリハーサルスタジオに個人練習で入って、曲作りをする手はずだったのだが都内近郊、駐車場のあるスタジオのほとんどが抑えられてしまっていたのだ。普段だったらこんなに混んでることないのに!!!駐車場はなかったけど代々木のスタジオに空きがあって直行。泣きながらステーキ弁当を食ったが、成果はあがりきらず。泣きながらみんなと磔磔のライヴでのリハーサルをした。

 

9/14

お久しぶりの中野のVoltaで録音。3日前に作った曲を録音。俺なりのインスタント・カーマですわ。夜は蓮見さんのラジオにゲスト出演。

 

9/15

後藤輝基LIVE マカロワ横浜公演のため横浜に向かう。第三京浜大好き。このライヴはその回ごとに表情が違ってそれが面白かった。配信もされたラストセットは違った表情がそれぞれ盛り付けられたような回だった。演奏終わってバックステージに戻るメンバーもものすごく興奮していた。このライヴが終わって、横浜の夜景が見れたら最高だろうな。見に来た妻と中華街の遅くまでやってた店で食事。そんで帰りも第三京浜。大好き。

 

9/16

某録音日。ついに曲がかけないままスタジオ入りだ。34歳にして初めてなにもないままスタジオに入った。ピアノの前に座り、ギターを弾き、ピアノを弾き、ドラムを叩き、ギターを弾き、夕食の時間になっていた。腹も減っていた。なので「黄金の定食」で紹介されていた髙ひろで付き合ってくれているエンジニアの加瀬さんとポニーの安田くんと夕食。私は肉豆腐だ。成果があがらなくてもメシはうまい。しかしデカダンの味がする。一時はどうなるかと思ったが、最終的になんとかなり、稽古終わりに遊びに来てくれた蓮見くんとも笑顔で別れた。最高の気分。

 

9/17

赤もみじのラストギグがあったので大阪のチケットを取っていたのだがいけないことはだいぶ前にわかっていた。妻を大阪に送り出し私は職場であるファミレスで歌詞を書く。インスタント・カーマにはその段階で「Aを今弾け」というタイトルがついたのだが、後々考えて「Aを弾け」の方がかっこいいな、となり、そちらを採用することにした。

 

9/18

ナイポレ収録からの別の仕事もうひとつ。台風の予報がどんどん厳しくなっていく。昼から社長とやり取りを続ける。結果的には延期になってしまった。やりきれねえ〜〜〜〜〜〜〜

ジゴロの頃

コロナの症状は発症してから4日ぐらいはその日ごとに一番つらい症状が違う感じだった。初日はのどの痛み、次の日は鼻水、次の日は熱、次の日は喉、しばらく喉が調子でなく、だんだんとやんわり収束に向かっていって最初に感じていた喉の痛みだけが戻ってきて、痰が残った、という形。明日はどこが悪いんだろう、と考えるだけでも精神衛生上最悪で、軽症で済んで良かった、となにかに感謝する他ない。それでも飛ばしてしまったライヴが一本、飛ばしたリハーサルが一本、飛ばしたレコーディングが一本。それらを思うと未だに整理がつかない。落ち着かないのだ。喉をやって入院して3本ぐらいライヴを飛ばしたことがあった。その時も相当食らったけど、自分自身やり過ごすためにどう気持ちを持っていくべきか、みたいなのが見えていた(ような気がする)はずだけど、何か比にならないしこりが残ってしまった、という実感だけがある。

療養中、かかった耳鼻科から電話が来た。妻の咳があまり良くならず医師に相談したかったからちょうどいい!なんて手厚いサービス!これからはここにお世話になろう!と感動していたら、話を聞くと、身内に感染者が出てしまい、濃厚接触者になってしまったから病院をしばらく閉めないといけないんだ、と言っていて気が遠くなった。新しく薬を出してもらえることになって、妻の症状はどんどんよくなったのでそれは嬉しいのだけど、これから数日間、その診察を受けられない人もいるのか、と複雑な気持ちになるしかなかった。

療養が明け、コンビニに行った。「夏が暑い」「ビーサンで歩くというのはこういう気持ちだっただろうか」。俺は何事もなかった街を歩く。ハロハロを購入し、手で掴んで部屋に戻る。その道中、昼間の暑さが残る深夜の歩道で少しずつ溶けていくハロハロを眺めることしかできない。このハロハロは今の俺だ。

療養で押しに押しているスケジュールに泣きながら口づけをしていく。そのために久しぶりにファミレスに向かい、詩を書くことにした。復帰初日だから、とあまり期待しないでノートと何冊かの漫画を持っていったのだ。店内には最近仲良くなった若いミュージシャンも居て、彼も締め切りで苦しんでいるようだった。こちらはなんと夕方以降の数時間の滞在で詩が書けてしまった。こんなにうれしいことはあるかい。出るタイミングが一緒だった若いミュージシャンのお茶代も気前よくかつ恩着せがましく支払い店を出た。彼も最近コロナにかかっていたのでその話題を少ししたのだが「外に出ると深呼吸しちゃいますよね、とりあえず。マーベルの映画とかで封印されてて復活したキャラが深呼吸するのってそういうことだったんだ、って」と話してくれたが、昨夜の俺は「夏が暑い」だったので笑いながら「そうだよね〜」と言ってしまったが、心のどこかで感受性の死を感じるほかなかった。

炎の文化人

18日

 

ライヴを終えて、物販に立つ。握手を求められても、以前だったら断っていたけど、最近は快く受けてそのままポケットに忍ばせていたアルコールをお互いの手に塗布するようにしていた。iimaさんを見て、タクシーを手配してもらい、小浜線まで出る。待合のロビーにものすごく見たことのある時計が飾られていた。ピンクとブルーで1時間経つと確か中から人形が出てくるものだ。覚えている時計なんて人生にいくつあっただろう。幼い頃の記憶をたどる。ひとつはいとこの山下家にあった鳩時計。もうひとつは子供の頃見た「ちいさい秋みつけた」のアニメーションに出てくる公園の時計。あれが超怖くて今でも打ちながら鳥肌が立っている。ところが形まで思い出せるものはこのぐらい。もうひとつあるとするならば、高六小のとなりにあったはすのみ児童館だろうか。

乗り遅れると一時間来ない小浜線に無事乗車して敦賀を目指す。翌日に控えたどついたるねんのライヴのためにどついたるねんを電車の中で聴いた。ぶっ飛んでいきさえしてくれない景色を眺め、この場所でこうやってどついたるねんを聴いている今というのは本当に尊いものだ、と暮れていく車窓を見て考え込み、思いを巡らし、ひとつの答えが出た。どついたるねんを聴いている場合じゃない。今回、家庭の事情から出演できない先輩のパートをいくつか歌うことになっていたのだが、最後のリハーサルで"R☆"という曲の「俺はカート・コバーンの生まれ変わりだ」というセリフを照れながら言っていたことがずっと引っかかっていた。どついたるねんの再生を停止し、Spotifyに「ニルヴァーナ」と打ち込んだ。そして「THIS IS NIRVANA」と銘打たれたプレイリストを聴く。1曲目に流れたのはかの有名な"Smells Like Teen Spilit"。ちゃんと聴いたのは前回の新潟遠征でDJ佐久間氏がかけてくれたのが初めてだったと思う。正直よくわからない。学生時代に特に話もしなかったけど、ニルヴァーナが好きだった矢野くんは今でも元気だろうか。それだけを思い出す。呆然と聴いていると、これまで自分でも驚くほど聴けていた曲が突然聴けなくなる。つい、スキップをしてしまったのだ。それはどうしてだ、と収録曲を調べてみるとドラマーがデイヴ・グロールじゃない、ということがわかった。デイヴ・グロールのドラムは最高、ということが1時間の間でわかったことが今回の収穫だった。この曲はなんか好き。

All Apologies - song by Nirvana | Spotify

敦賀から米原へ。米原から東海道新幹線に乗り換えた。東海道新幹線では40代のアベックがマスクを外してずっと喋っていた。俺の気持ちはどこへ行くのだ。東京駅まで迎えに行くよ、という妻の申し出を退けて荷物を抱えて自宅についた頃には23時を過ぎていた。

 

19日

どついたるねんの「伝説の一日」に向かう前に部屋でもう一度NIRVANAとついでにレッチリも聴いた。"先輩のライクアローリングストーン"という曲に「打倒柴田聡子 or ジャック・ジョンソン ノンノンノン ジョン・フルシアンテ」という詩が出てくるためだった。つまらなそうにニルヴァーナを聴いていると「ニルヴァーナはね、MTVアンプラグドっしょ」と妻。行きの車でも首をかしげながらニルヴァーナを聴いた。FEVERに到着。久しぶりに岩淵さんに会えて嬉しい。リハーサルの段階で轟音過ぎて途中で受付で売ってた耳栓を買う。アンコールの「鳥貴族」をやったときに先輩の合いの手である「イッツ・オールド・スクール!」という掛け声もカラオケに入ってるということを失念していて、おんなじタイミングで「イッツ・オールド・スクール!」と言ってしまって俺はどれだけ先輩が好きなんだ、と恥ずかしくなってしまった。リハーサル終わって優介と3人でラーメンを食べた。本番では自分なりのパンクを気取り、歌うとき以外は極力マスクをして演奏した。異常な轟音の中で歌をうたっていたら速攻で声が飛んだ。ライヴ中に龍角散ののど飴をなめたりしたが、ダメージは残り、終演後、致死量とも言える量ののど飴をなめ散らかした。ステージでは可能な限りふざけるんだけど、演奏は手を抜かない、という1曲目が始まったときに降りてきたコンセプトに則り、ライヴは本当に手応えがすごかった。とにかくスペシャルな演奏になったと思う。この動画、公開されてから一日一回は見てます。

BESTHITS LP発売記念ライブ「伝説の一日」より人生の選択~R☆~080 - YouTube

 

20日

冷房の設定を間違えたらしく寒くて目が覚めた。やってしまった。喉と鼻の間が痛い。喉風邪をひいてしまった。昨日のライヴで声も潰れてしまった。龍角散を手放せない一日を過ごす。一度ゲップをしたらどんでもない味のゲップだった。目が一発で覚めるようなもので、龍角散の変な味の部分が20倍ぐらいに濃縮されたのが頭部いっぱいに広がった。

 

21日

スケジュール帳には「掃除大会」と書いてある。それに加えて、デモを制作。メンバーにデモを送信。掃除はもちろん進まなかった。喉風邪はひどくならず、いつものやつだな、と感じたが、鼻水がアレルギーのように出る。悪い予感もしてスーパーで野菜や肉を買い込んだ。

 

22日

朝起きると耳閉感がある。ここまで熱はまったくの平熱。こりゃなんにせよよくない、医者にかからねば、と近くの町医者に電話をかける。すると「来週の水曜日まで予約でいっぱい」と非情の宣告。妻を送る道中で抗原検査キットを購入。部屋で検査をする。抗原検査は何度かやったことがあるが、信じられないほど「あっ、これ絶対ダメじゃん」という速度で陽性の判定が出た。慌てて関係各所に連絡を入れる。マネージャーが根回しをしてくれて、近い病院で診てもらえることになった。と、言っても陽性はもう確定なので、保健所への連絡がスムースに行くための診察とのことだった。現在の症状を話す。熱を測る。37.7。待っていると、向かいに中学生ぐらいの女の子が母親と座っていて、女の子が泣き出してしまった。「わたしXX行けないじゃん」と言っていた。夏休み入ったばかりの学生を地に落とすような現状に納得がいかない。俺がもし紳士だったらこんなときカバンの中から何か楽しいものでも取り出せるのだろうか、とカバンを見てみたが、福井で頂いた奇妙礼太郎さんの新譜と、福井の帰り道に読もうと思って一切手を付けなかったボリス・ヴィアンの「北京の秋」が転がっているだけだった。

診察を終え、症状がとても軽い、という自覚がだんだんと出てきた。妻とうまく連携して入れ替われるように部屋を変わってもらう。医師と相談した結果、この時点では抗原検査で陰性だった妻はホテルへ逃げてもらうことになった。翌日にはホテル療養入れるかな、と思っていたが、病院でもらったホテル療養などの説明が書いてある紙を見て、朝9時から4時までの受付だと知る。夜が深くなると関節がふわふわしてきて、熱がじわじわ上がっていった。38.4を確認して解熱剤を飲む。目が覚めたらよりひどくなっていたらいやだな、と思って何故かなかなか布団に入れず、4時過ぎまでずっとゲームやっていた。NICE POP RADIOを聴きながら自分で選曲したはっぱ隊の「YATTA!」にものすごく心が揺さぶられた。「生きているからLUCKYだ」という詩は本当にすごいな。泣いてないけどほとんど泣いてた。

2022年7月22日(金)20:00~21:00 | NICE POP RADIO | α-STATION FM KYOTO | radiko

 

23日

目覚ましより早く目が覚めた。喉がちょっときつい。ピリピリするのだ。悪くなった部分もあるが、熱は下がったようで、37.1。寝起きにしてはやや高いが、平熱という意味ではこんなもんだ。熱が下がったことにより、何でもやれそうな気がする。でもぼんやりする。少しでもポジティヴに考えていないと気持ちが折れてしまいそうなのだろう。まったく繋がらないホテル療養相談センター。あまりに繋がらなかったので渡されていたホテル療養の説明の紙に書かれていたQRコードの一番上の電話にかけてみたがもちろん「そういうことじゃない」と言われてしまった。でもホテル療養相談センターは300台の電話で対応している、と教えてくれた。繋がったと思ったが、この時点で声が出しにくい感じになっていて、電話で「名前は?住所は?どこの病院で診てもらいましたか?」などをいちいち声に出して説明するのがあまりにだるい。潰れてしまった声だったため向こうも聞き取りづらかったらしく、何度かやり取りが往復したり、訂正するのに「これってインターネットじゃだめだったんですかね……」と漏らしてしまった。これって電話以外じゃダメだったの?この2年半何してたの?

そうしてホテル療養の受付だけが完了。細かいことはまた折返しの電話で説明する、とのことだった。夕方まで眠る。折返しの電話で「明後日にならないと部屋があかない」と言われる。事情を説明して、妻が今後もし陽性になることがあったら我々は部屋にいていいのか、そうなったらホテル療養のキャンセルはどうするのか、などを質問する。「前日の夕方以降にどこのホテルに入るか電話が行く。そのときでも大丈夫だし、ホテルに入るため、当日に迎えに行く際、電話で連絡するからその段階でもキャンセルは可能」と言われる。妻にも報告。録画して5年観てなかったビデオを見たりして1日があっという間に過ぎた。

楽しみにしていた崎山くんとのクアトロも延期が決まってしまった。せっかくなので延期と同時に振替の日程も出したいそうだ。そりゃそうだ、二度手間になるからまとまったからにした方がいいに決まってる。しかし、クアトロの空き日と我々のスケジュールが合わなく、調整は難航。(即発表にならなかったのにはそういう理由がありました)

 

24日

妻から連絡があり、妻も熱があがってきてしまった、そうして実家の猫も亡くなってしまった、とのことだった。渡してあった抗原検査キットをやってもらうとやはり陽性。発熱相談センターに電話をして、熱だけはすっかり下がってしまった私がホテルまで車で迎えに行く、というのが最善、と判断された。妻を迎えに行って複雑な気持ちになる。ホッとしたような気もするが、マヤちゃんの死に目に合わせられなかった原因を作ったのは俺だ。その後悔ものしかかってくる。生活とは。

車に乗り込んで妻を迎えに行く。街はいつもの日曜日だった。

妻が陽性ということがわかったため、また発熱相談センターに電話をかける。これがまた繋がらないんだ。なんで電話じゃないとだめなのこれ。ようやく繋がってまた出づらい声でいちから説明していく。「旦那さんが診てもらった病院で診察してもらうのがいい」と言われ、仕方がない、翌日に病院に電話することになった。

妻の熱は引かず、解熱剤飲んでようやく37度後半に落ち着く程度だった。妻は汗をあまりかかないので、汗だくになって布団で寝転ぶ姿を見るのは衝撃的だった。

実家の父と母から連絡があり、妻も陽性、予定していたホテル療養がなくなったことを伝える。そうするといくつか食料を届けに来てくれる、というのだ。素直に甘えて納豆や牛乳、卵や肉類を買ってきてもらった。

夜中、苦しくなる。しかしこの苦しさは見覚えがある。ストレスから発症する喘息の症状のひとつだ。でも、そうじゃなかったらどうしよう?と頭をよぎる。パルスオキシメーターも家になかったから不安になり、余計に嫌な気持ちになった。

 

25日

本来だったら今日からホテル療養のはずだが一向に連絡は来ない。それともうちうちにあそこの家は嫁も陽性だからという情報が行って自動的にキャンセルになったのだろうか。診てもらった病院があく時間の少し前に起きて、電話をかける。全く繋がらない。携帯片手に台所に立つ。昨日、父母が買ってきてくれた生鮮食料品の中にもうあとは揚げるだけのチキンカツも入っていて、それの賞味期限が一番近かったので揚げて食べた。結局150回ぐらいかけ直して、2時間過ぎてようやく繋がった。事情を説明すると、今からは無理だけど夜だったら診ます、と丁寧に説明してくれた。ひと安心。そうこうしている間に澤部渡新型コロナウイルス罹患に伴い7月27日のイヴェント内容の変更が発表された。表向きのちゃんとした文章は崎山くん側の発表とカクバリズム側の発表があるから、ぼく個人としては軽めにしよう、軽症をアピールしたほうが心配かけない、と思って要約すると「軽症で〜〜す!チキンカツ食ってま〜〜〜す」みたいなツイートをするが反感を買ってしまったようで反省もしている。慌てて深刻なツイートも併せてしようとしたが、どうしても文字数が足りないとわかり、諦め、適当な感じになってしまった。俺の諦念があのツイートに漂っている。それとは別に「気持ちを切り替えて、在宅ライブしようぜぇ〜!!」とリプライが来てめちゃくちゃ腹がたった。いちいち説明しなきゃいけないのか。軽症だけど軽症なだけであってしんどいはしんどいんだよ〜〜〜〜とか、崎山くんとのツーマン、それも渋谷のクアトロというところに意味があるんだよ〜〜〜〜〜とかいちいちツイートしないとわかってもらえないのか。

夜、妻の診察をしてもらう。僕も軽く見てもらう。血中酸素濃度も問題なく、やはりいつもの喘息だった。とひと安心。一緒にいるけど僕の自宅療養期間は変わるのか。などなどいくつか質問もした。72時間、熱が出なければ、7/30に自宅療養期間が終わることに変わりはないそうだ。

寝っぱなしでいられるほど熱があるわけでもないので、かと言って集中できる感じでもないので、頭を使わなくていい作業をいくつかやる。その中で一番大変なのが部屋の掃除だ。

ゆめサンバ

某日

ラジオの収録のあとに整体入れようと思ったが妙にタイミング合わなくて諦める。

 

某日

ミツメとサニーデイのツーマンを楽しみにしていたのだが締め切りの関係で諦める。

 

某日

ムーンライダーズのリハーサルが始まる。自分でもどうなるんだろう、と思っていたのだがいざ音を出してみるとなるほど、こういう形になっていくのか、とワクワクする。ある日、慶一さんがとっかえひっかえにいろんな歌をうたっていて、最初はザ・バンドビートルズビーチ・ボーイズを経て、どこかで加川良になり、斉藤哲夫になった頃、しびれをきらした(ように感じた)くじらさんがはちみつぱいの曲を演奏はじめて、そこから演奏にながれていったのがとにかく最高だった。「センチメンタル通り」から「マニア・マニエラ」はたったの9年のできごとなのか。

 

某日

ナイポレの収録。直前で(深い理由じゃないんだけど)事情あり選曲テーマ変更。限られた時間のなかでどれだけ面白いものにできるだろうか、と思ったがひたすら私がぶち上がる回となってしまった。先週の妙な曲特集とは違ったベクトルでリスナー置いてけぼり回にはなると思う。最高に楽しかった。つかの間の休息にもなった気がする。

 

16日

ムーンライダーズのライヴ。1stセットも2ndセットも多分すんごくよかった。今回のライヴのためのリハーサルは最初の曲から順番に手をつけていった。「スカーレットの誓い」はレコードと同じDのキーではなく、普段のライヴでやっている通り、Cのキーでやる予定だったのだが、「温和な労働者と便利な発電所」をあわせ終わった後に、Dのキーでやった方がいいんじゃないか、と感じてしまい、「Dでやってみませんか?」と提案してしまったのだった。「出過ぎた真似をしたかもしれない」とちょっと心にひっかかっていた部分もあったのだが、本番でのあの感じはちょっと言葉では言い表せない高揚感だった。

 

17日

福井へ前乗り。移動している途中に社長から連絡が入り、当日に入る予定だったスタッフの家族にコロナ陽性が出てしまい、社長も野音の階段で転んで負傷してしまった、と伝えられ、一人旅が確定した。東京駅から米原、そこから敦賀でのりかえ。このまま素直に小浜線に乗っても良かったのだが、ちょっと時間が空いたので敦賀の街の地図を見る。少し離れたところにブックオフがあるな、と気づいた頃にはタクシーに乗っていた。ミツキヨの「強烈ロマンス」が落ちていたので購入。タクシーで駅の方に戻り、運転手さんから教えてもらったRecoyaにも載っていなかったオーディオ渡辺というお店でレコードを見る。MPSのジャズのアルバムなど、いくつか購入。いい店だった。時間があまりなかったのでいつかまたじっくり見たい。ギリギリの時間で小浜線に乗り、小浜駅を目指す。車内で平方イコルスンさんの「スペシャル」の3巻と4巻を読む。ずっと不穏だった気もするけどぐっとその色が濃くなる。そして過ぎていく田舎道が「スペシャル」の世界観に少しずつ重なっていくようだった。小浜駅に着き、海っぺりのホテルに着き、チェックインをした後、タクシー運転手さんにおいしい、と勧められたごはん屋さんに入る。確かに何食ってもうまい。自傷に近い気持ち(私は魚が食べられない時期が長かった)で注文した刺し身の盛り合わせもどれも美味しく、自傷に近い気持ち(私は酒を飲める時と飲めない時がある)で注文した日本酒も美味しかった。店を出るときにそのお店の女将さんから「あなたはね〜〜〜癒やされる!」と強い言葉をかけていただく。うれしくなって15分ほど歩いて最寄りのコンビニでガリガリ君を買った。夏の海でおれは心のバイブル、ムービックから出た方のたかみち先生の画集の世界に入り込むためにはそれが必要だった。コンビニから出ると女性ふたりに声をかけられて、話を聞くと明日共演するバカがミタカッタ世界のおふたりだった。偶然の出会いに嬉しくなり、海岸線で食おうと思っていたガリガリ君をふたりと別れた後に食べた。人がひとりも通らないほどの真夜中ではなかったはずだったが人はひとりも通らず、足音とときどき走る車の音だけが響く。海っぺりに戻ってくると、さすがに3組ほど人がいて、花火をしていたり、座って話しているようだった。私も少し離れて石垣に腰をおろす。灯台もなく、対岸のあかりがにじむ。カーブに沿って等間隔に強いあかりがあって、きっとあれは街灯なのだろう。街灯のあかりが飛び石のように海の中で弱くなっていく。明日はライヴだ、という気持ちにだんだんなっていった。マニア・マニエラ再現ライヴとどついたるねんのワンマンの間に挟まれたライヴはどんな気持ちで臨めばいいか、わからなかったのだ。

ホテルに戻って平方イコルスンさんの「スペシャル」の続きを読んだ。あまりにも、あまりにもな物語の終わり方に涙が止まらなかった。おまけ漫画の最後のコマのセリフが胸に刺さって仕方がない。ほのぼのナンセンスユーモア漂う漫画だったはずが、どうしてこうなった、とも思うのだが、以前平方イコルスンさんが書かれた「無理」という短編がすごく好きだったので、あの作品のヒリつく感じがそこにあって嬉しくもなった。

 

18日

ライヴは調子がよく、調子が良すぎてコードも歌詞も間違えた。ときどきなる。コロナ禍初期に開催された川辺くんとのツーマンで「視界良好」を歌っているときに「このままこの感じで歌い続けられたらぼくどうなっちゃうの」と思ったことがあるのだが、そのときとまったく一緒の感じ。そしてなによりどの曲を歌っても「スペシャル」のふたりの歌に思えてくる。我々は不測の事態に備えて、リスクを考えながら練習するのだが、頭がスパークしちゃった状態に備えることができない。どうしたもんか。

ジャンプ日和

27日

yes, mama ok?の久しぶりの対面の会合だった。東京を離れるヨーコさんの壮行会でもある。久しぶりに会えて嬉しい。yes, mama ok?はあらゆる意味で原点なので、また早くライヴがしたい。

 

28日、29日

某レコーディング。

 

30日

直枝さんと弾き語りのツーマンライヴ。暑すぎる6月に「市民プール」がしみる。「Blue Black」も弾き語りで聞けて嬉しい。アンコールでは一緒に「防波堤のJ」と「離れて暮らす二人のために」を演奏。「防波堤のJ」はかつて豊田道倫さんのイベントの手伝いをしていた頃、直枝さんとツーマンをやったことがあって、そのアンコールで豊田さんと直枝さんがセッションしていた思い出深い一曲だった。本番終わるまで食事を摂らないぼく(食べるとゲップがでるので本番4時間前からはなにも食べないようにしている)を見かねた直枝さんが、終演後にバーカウンターで売られているソフトクリームをごちそうしてくれた。この夏一番おいしいソフトクリームはこれ以外にない。

 

7月1日

どついたるねんのリハーサル。全員が爆音で耳が即死。カバンに入っていたイヤフォンで対応を試みるも撃沈。受付に耳栓は売っていないのか、と訊ねると非常のノー。仕方ないのでDJ用で貸し出ししている側圧の強いヘッドフォンをレンタルしてなんとか最後までやりきった。これがパンクバンドか。丸腰だった。と強く反省をする。リハーサルが終わった後も振動が身体に残った。

 

7月に入って制作がヤバ過ぎるのだがどうにもこうにもうまく行かない。出来上がった曲のサビがル・クプルのまんまだと気がついて破棄する。

はゔ・あ・まーしー

18日

 

オッドタクシーフェス。前日には気持ちを作るために有田ジェネレーションのダイアンラップバトル回を見てから眠った。当日、楽屋に入り、借りてきた猫のような気持ちでいたがSUMMITのみなさんが優しくしてくれて泣きそうになった。METEORさんと濃い漫画の話をしていて、そのあとOMSBさんが「宮本から君へ」を勧めてくれた。苦手な気がしてずっと避けてきてきたものがいくつもあるけれど、新井英樹作品はそのひとつで、すぐに読めるかどうか、わからないけれども、気持ちは近づいた。

なかのZEROホールは音楽のライヴとは違う熱気があった。我々はどちらかというとアウェーだろうな、なんて考えていたが、熱は平等だったようで緊張しながらもとても楽しく演奏することができた。

演奏が終わってそのまま飛び出しで名古屋に向かう。最終で名古屋に到着。せっかく名古屋に来たのだからおいしいもの食べたいという気持ちもどこかにあったはずだが、なにも考えられなくて、ホテルからすぐそばの沖縄料理屋に入った。名古屋とは。沖縄とは。部屋で考えられるあらゆる身体の危機に備えてR-1やらアミノバイタルやらキメまくったらときどき起こる身体は眠っているのに頭が眠っていない状態になり、決して熟睡できたとは言えない睡眠になってしまった。

 

19日

岐阜のOUR FAVORITE THINGS repriseというイヴェントに出演。駅でうどんを啜ってから特急電車に乗り岐阜に向かう。この日の会場は各務原市の村国座という農村歌舞伎舞台。容赦なく日差しが照りつける大変暑い日だった。塩キャンディなめたりして、それでも会場の雰囲気があまりに素晴らしく、柔らかい衝撃を受けた。畳野さんのライヴも王舟のライヴもすごく良くて、とてもいいイヴェントになった気がする。ありそうでなかった組み合わせも嬉しくなった。

 

20日

作業日にあてたはずだったがなにもせず成果はあがらず。

 

21日

MURAバんく。の土屋くんとひょんなことから仲良くなって、土屋くんの提案で「日常」のコンセプトカフェ(今調べていたらコラボカフェっていうのが主流らしい。昔はコンセプトカフェって言ってたよね……)に行くことになった。シティポップのラジオ収録を終えて、はじめてスカイツリーに行った。妻にもなんかコンセプトカフェいくっていうのが恥ずかしくてだまって来てしまった。グッズも完売だったけど、土屋くんと音楽と漫画とアニメの話できたからいいや。とても楽しかった。

MURAバんく。 「喪服の裾をからげ」 MV - YouTube

 

22日

作業日だったが成果はあがらず。

 

23日

名古屋でライヴ。崎山くんとツーマン。連日のライヴだったのにさすがに仕上がっていてどう転んでもいい具合にはなったのだが、自分の反省点として、さすがに気合が入りすぎた、もっとリラックスしてやってもよかった、と崎山くんの演奏を見て思った。俺が漫画の登場人物だとしたら崎山くんのライヴを見て「ギターから龍が出てきたぜ」とか言うだろうな。PARCOの中にあるホテルに宿泊。チェックインする際にロビーにうっすらオルゴールアレンジの音楽が流れていて、これはどういう感情になればいいんだ、と困惑する。

 

24日

ここ数日、遠征が続いていたにも関わらず、ほとんどレコード屋に行けなかったのでこれは身体によくない、と一日時間を作って体力の限りレコード屋を巡ることにしたのだ。ホテルをチェックアウトする際にうっすら聞こえたオルゴールアレンジの曲が「あたりまえ体操」だとわかって気が遠くなる。外に出るととにかく暑い。宿から大須まで歩く。コンパルで朝食を食べて、ものすごく久々にGreatest Hitsを見ることができた。ニューウェーブのレコードをいくつか購入。バナナレコードでは小坂忠さんの「もっともっと」を状態は少し悪いやつだけど3000円で買えた。他にもシティポップの目線であれ持ってない、これ持ってない、というものをいくつか購入。移動してラジオデイズレコード。ジミー・ウェッブが曲を書いたRevelationというグループのレコードを買えた。意地になって歩いてディスクユニオンについた頃には目が滑り出してしまって、うまく選べなくなっていた。新入荷に刺さっていたXTCのスカイラーキングの日本盤を見て(あれっ…これエンボス加工がない…うちのは確かあったよな…)と購入したのだが、我が家にあったスカイラーキングもエンボス加工がなかった。生態系を乱してしまった。ホテルに戻り、荷物をまとめて移動して名駅前のバナナレコードで締め。デア・プランと以前シンムラテツヤさんに勧めてもらったWE ALL TOGETHERをようやく購入。いい収穫がたくさんあって嬉しい。疲れ果てて夕食を諦め、東京に帰った。

 

25日

NICE POP RADIOの収録。放送の7/1がα-STATION開局31周年の日だというのでラジオに関する曲をいくつかオンエアー。そういえば中期のコステロ金剛地さんの影響で聴いていたけど、僕がはじめて初期のコステロ聴いたのって名駅のバナナレコードでかかっていたのが最初だったはずだ。その時かかっていたのが"Radio, Radio"だった。

夜はミックスのチェック。葛西さんの新スタジオではじめてのミックス。いい仕上がり。お楽しみに。

 

26日

月光密造の夜。素晴らしい一日だった。リハーサルのあとにタワレコに向かう。昨日の収録とミックスの合間に昨日買ったレコードをいくつか聴いて、Xao Seffchequeがあまりにかっこいいもんだから他のCD出てないか調べた結果、渋谷のタワレコに在庫があったので、"Softly"の取り置きついでに、とポチッと取り置きした。結果的に暑すぎて取り置きすら後悔する。暑さでゆだった頭でDJ、ミツメを見ながら復活してきて、トリプルファイヤーで興奮、自分のライヴといい具合にすすめることができた。ライヴの内容も良かった気がする。「沈黙」で大サビの終わりの方に優介が弾いたフレーズがあまりに凄すぎて歌詞カード見てたのに歌詞が飛んだし、めちゃくちゃ笑顔になってしまったので、お客さんからしたらシリアスな曲で突然いい顔になっちゃった狂人に見えたのではないか。それか歌詞飛んでごまかそうとしていた顔にみえたのではないか。