幻燈日記帳

認める・認めない

ゼイ・セイ

18日

 

京都の磔磔でライヴ。台風で延期になってしまったもんだから予定は組みなおし。平日になってしまった。今日は久しぶりの新宿集合。10年前の1月も京都でライヴがあったな、なんて思い出していた。朝早かったのに電車はもう混んでいて、座れず、文庫も開く気分になれなかった。閉まっている小田急の前での集合。10年前と違うのはそこだ。車で京都に向かう。優介と佐久間さんはずっとしゃべっていて、この感じは10年変わっていない。秋山さんのスーパー運転により遅れることなく磔磔についた。磔磔は何回来ても気持ちがシャンとする。ここ数日なんだか心が閉じているような気がして、うまくライヴできるだろうか、とちょっと思っていたのだが、磔磔の入り口に立つだけで気合が入った。リハーサルで半分ぐらい曲をさらって、アンコールの「静かな夜がいい」のセッションリハーサル。半分ずつぐらい歌う、という内容だったのだけど、信じられないぐらいの曽我部さんの声。あまりに圧倒されて、落ち込みそうだったけれど、逆に奮い立った。

この日、サニーデイPAとして同行してきたのは「ストーリー」と「ひみつ」を録音してくれた馬場ちゃんだった。13年続けてそれぞれの成果が自分たちの見えるところで開く瞬間というのは実にいい。

サニーデイのリハーサルが「月光荘」で始まったとき、今日は絶対にいい日になる、と確信した。

ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて30分ほど眠った。どうやらこれが正解だったらしく、移動で溜まった披露は吹き飛んだようだ。ホテルから磔磔へ向かう途中、佐久間さんとなおみちさんとロビーで鉢合わせ、3人で京都の街を歩いた。佐久間さんと「あの頃は僕らも全員20代だったもんね」、と笑う。

カクバリズムの20周年公演なのでサニーデイが先行。新旧織り混ざった絶妙なセットリストで最高だった。海辺のレストラン、苺畑でつかまえて、ときて、魔法のフィルインが始まったあの瞬間は自分の中で永遠だった。

スカートのライヴもここ最近のライヴでは屈指の出来だったんじゃなかろうか。アンコールのセッションでは本番よりも声が出ていたらしく、終演後メンバーやスタッフに笑われた。磔磔で軽く打ち上げ。ボーイがとても気の利いたジョークを一つ言ったのだが、それがなんだか思い出せない。とにかく最高の夜だった。

 

19日

メンバーは一泊して車で東京に戻る。私はそのまま京都に残り仕事をして帰ることになった。その前に宿の近くのCD屋でいいところ掴んだ。経営の危機だというホットラインにも寄っていつもより多めにレコードを買った。すぐ近くのリンデンバウムにも寄って甘いものも手に入れた。KBS京都に移動してラジオ番組の収録。膨大なレコードライブラリーから選曲するという番組で、いつか出たい番組のひとつだった。松永良平さんがつないでくれて出演が叶う。KBSのレコード室は入荷した順番にレコードが並んでいて、4時間近く選んでいたにも関わらず66年ぐらいから73年まで、88年から89年までしか見れなかった。夕方の京都にあの曲が鳴り響いたらそんなに素敵なんだろう。放送の日取りが決まったらまたお知らせします。もうひとつはNICE POP RADIO。悩みに悩んだのだけど高橋幸宏さんの特集を組んだ。追悼、というのがどうしても苦手になってしまった。記憶がおぼろげなのだけど、忌野清志郎さんが亡くなったときに、交流もあったシンガーソングライターが「どうして死んでからこう持ち上げるんだ。生きていた晩年の彼を世間は評価してなかったじゃないか」というようなことを言っていたことが自分にも当てはまってしまったからだと思う。あの頃、僕も若くて、晩年の活動を見ていて「自分からKINGとかGODとか言っちゃうのはなんか違うよね」とか自分勝手に思っていたのを見透かされたような気がしたのだった。でも悲しいのは悲しくてさらにどうしたらいいかわからなくなったことをよく覚えている。それ以来、著名人が亡くなったときにどう対処していいかわからなくなってしまったのだ。そして、自分も幸宏さんの優秀なリスナーではない。過去のアルバム、特に90年代のアルバムで聴いてこなかったアルバムがいくつかある。そういう事情もあって特集を組むかものすごく迷ったのだけど、気持ちに整理をつけないまま選曲を進めた。だからこそ、収録は大変だった。選曲はギリギリまで迷ったし、最初のリストから急遽変えた部分もある。「BLUE MOON BLUE」からかけるべきか、「audio sponge」からかけるべきか、結局後者を選んだのだが、前者が収録から1週間経った今でもチラついている。不安定な放送になってしまうかもしれないけれど、よかったら聴いてください。

収録が終わって、一泊するか東京に帰るか迷って、終電ギリギリで東京に帰ることにした。せっかくだからゆっくりするべきだったかもしれないが、なんとなくこうして正解だったような気がしている。

 

それはただの気分か

15日

リハーサル。去年から15日にリハーサル入る、と決めて、スタジオも取ったつもりでいたのに前日に取っていないことを思い出して慌てて抑える。びっくりした。こんな気の抜けたリハーサル初め。一ヶ月だから久しぶりのというわけでもなかったはずなのに、リハーサルの所作が体から抜け落ちていて、大きい音が鳴っているということに対して体がついてこなくてとにかく疲弊した。年齢のせいだろうか。正月気分が切り替わっていなかったのだろうか。

 

16日

夜、ゲストで出演するラジオの収録だった。21時から23時半、とGoogleカレンダーにかかれていて、そんなに話せるだろうか、と不安だったのだが、実際あっという間だった。自分の半生を振り返る前半、現状をどう考えるかの後半。一種のカウンセリングでもあったような気がした。都合のいいようにフタをしていた記憶もいくつか開いてしまってちぐはぐになってしまった部分があるような気もする。傷つくことによって至るセラピーがあるのかもしれない。社長の車に京都で使う機材を詰め替えて、部屋に戻るために車を走らせた。人気のない夜の街道沿いのガソリンスタンドで給油をしているときに車内ではシャッフルでフィッシュマンズのベスト盤のDisc2に入っている「それはただの気分さ」のデモが流れた。静かな夜、寂しい夜である。どうして今夜、私は夜を歩いていないんだろう。車に乗り込んでもう一度最初から「それはただの気分さ」を聴いた。そのまますぐに家に帰れる気がしなくて、遠回りをすることにした。ハンドルを握りながら、ひとつの諦めが胸に降りてくる。カーブを曲がる。スピードを落とす。信号が青になるのを待つ。少し走って左折のウインカーを出す。

ダンス無重力

12日

深夜までナイポレの収録のため、数日間続けていた選曲作業のつめに入る。膨大に膨れ上がった選曲リストから間引いて間引いて完成。それでもトータルの分数から察するに放送尺が足りないなんていうこともありえる、と予備も数曲選曲。アルバムの制作やプロモーションが一段落したからじっくり選曲に向き合えてたのしい。

 

13日

iPhoneのechofonが使えなくなる。調べてみるとサードパーティのクライアントは締め出されてしまったそうだ。Twitterの公式は通知を見るため、echofonは公式の検索がほとんど機能しないため(マイナスの指定などが反映されない。リスト化して見づらい)エゴサーチの鬼として使用していた。そしてリストを見るためのbuncho、PCでの閲覧はTweetdeckという具合。bunchoとTweetdeckは生きていたためあまり支障がないが、エゴサーチがちょっとしづらいだけでちょっとデジタルデトックスが遂行された気持ちになってほんの少し気分が良かった。これからはブログの時代だ。

腰の痛みに音を上げ整形外科の診断を受ける。1年ぶりの診断だそうで念の為レントゲンまで撮ってもらったのだが大きな問題があるわけではなかった。

ナイポレの収録は無事終了。とてもいい感じになったと思う。

 

14日

部屋の掃除をずーーーーーーっとしている。この日は本棚を動かすため、一度中身をからっぽにして動かしたりしていた。足の踏み場もなかった我が部屋に少しずつ足の踏み場が生まれることに感動する。そして本は少しずつ吸われていくが、行き場のないちょっとしたフライヤー、変わった大きさの書籍などをどうしたらいいのだろう、とまた抱える。シラフのつもりで生きているのだが、ときどきご作動で携帯のカメラが起動したとき、表示されたディスプレイを見て「えっ、こんなに俺の部屋汚いの?」と素直に思ってしまう。普段の私は何を見て、何を感じているんだろうか。シラフで生きてるはずじゃなかったのか?どんなに悲しくなってももうどうにもならない。泣きながら可能な限り部屋の端っこに少しずつものを積み上げていくしかないのか。

 

15日

ガス代が1万円を超えていて泡吹いて倒れる。今までこんなに高い金額になったことがあっただろうか。これからは追い焚きなんてしません。

昔シェアハウスしていた友人たちと久しぶりに会って話す。くだらない話で始まったかと思えば壮年期らしいシリアスな会話にもなる。まさか全員既婚者になるとは。軽やかで重みのある楽しい会だった。部屋に戻って買うだけ買って聴けていなかったレコードを聴きながら掃除の続きをした。

真夜中、風呂を掃除してお湯がたまるのを待っていたら高橋幸宏さんの訃報を受け取った。誰かが亡くなって思えることなんて限られている。悲しい。早過ぎる。元気になってもう一度ステージに立って欲しかった。浮かんでは消える。そんな思いを書くことに意味はあるのだろうか。とにかく悲し過ぎる。私の人生最良の瞬間は2015年の12月。鈴木慶一さんの45周年記念イヴェントでのことだった。ただでさえ天にも昇る気持ちだったのだが、リハーサルに立ち会えなかったアンコール、佐藤優介がアレンジした「エイト・メロディーズ」の演奏が始まった時、どういう訳かドラムのライザー、矢部さんと幸宏さんの真ん中に私がいたのだ。舞台監督の笹川さんからは「ケラさんが入るはずの位置に澤部くんが行くんだもん」とその後なじられたのだが。ともかく、曲は進み、静かなプログラム中心のパートから生バンドも加わるきっかけというのが矢部さんと幸宏さんがたたく(優介が指定したフレーズの!)フィルインだったのだ。あの瞬間、私の身体にはとんでもない衝撃が走り、これまで感じたことのない幸福感に包まれました。本当に素晴らしい瞬間でした。そこに至るための過去の全てが私を肯定してくれていたような気がするのです。あの衝撃はこれ以上言葉にすることができません。その日、牧村憲一さんがFacebookにかかれた記事のリンクを貼らせてください。本当に寂しい。ただただ悲しい。どうしたらいいんだろう。

 

https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid02oaB9xwRrybeQ9hpVZGRjNmJ1JfVn6oeMpB9ZkfRxNwygbxJvk5QVmEnbV8FFuiAMl&id=100001538894988

 

 

サインコ

2日

部屋の外へ出る。あまりにも静かで嬉しくなる。少し前にラジオに出たときに「年始の人がいない東京が好きなんですよね」と言って、そうか、コロナ禍でもう正月に実家帰る人も減っちゃってるのかもしれない、時代遅れなことをいってしまったかも、と思ったのだが、まだ有効だったようだ。もっとも、人が少ない東京、というのは都心のことを指していたはずだったけど。

実家に顔を出す。年齢を重ねるごとに、自分の貯金のなさや、税金の支払いに苦悶し、俺の人生とは、と考えるのだけど、父は若くして家を建てた……俺に、俺の芸術にそれだけの甲斐性があったら、と人知れず嘆く。

 

7日

ドラァグ・クイーンのショウ、オピュランスを観にZepp Diver Cityへ。コロナ禍において私を救ってくれたもののひとつが「ル・ポールのドラァグ・レース」だ。私の抱える(べき)芸術を見つめなおすきっかけにもなったし、大いに影響を受けた。日本では新シーズンすらまともに見られなくなってしまったけれど、それでも4人のクイーンが来日してショウを披露する、というのでウキウキと向かった。最後にZeppに来たのは2019年のTeenage Fanclubだった、ということも思い出す。オピュランスはエネルギーの塊のような場で、きらびやかな世界だった。

 

9日

母と映画を見に行く妻を吉祥寺まで送ってココナッツに顔を出す。金剛地さんに教えてもらったツィッギー主演のミュージカル映画、「ボーイ・フレンド」のサウンドトラックを見つける。新年早々縁起がいいわね。海外の方がクラスターの超かっこいいジャケットのやつを試聴させてもらったあと、元々お店でかけてたスティーヴィー・ワンダー、それも「イン・スクエア・サークル」!に戻った時、海外の方が「クラスターからスティーヴィーなんて繋ぎ、聴いたことないネ」と言っていた笑ってしまった。店を出て吉祥寺の裏道を歩く。廃屋になった一軒家の庭に見事に寒椿が咲いている。それだけなのに心に穴が空いたような気持ちになってしまう。

 

 

地下鉄状

年内、28日までぎっちり入っていたはずの仕事が徐々になくなっていく。ある仕事は先方がコロナにかかってしまったため、ある仕事はひとつ前のやり取りで完結したため。そういうわけであらゆる仕事が少しずつ落ち着いてきて、あまりにも汚すぎる部屋のことを除けば調子はいい。『SONGS』のリリースの間、聴けなかったレコードやCDを聴きながら考え事をしている。松永良平さんに教えてもらったジョン・ブライオンのソロ・アルバムはないちゃいそうになるぐらい最高だった。その勢いで年内積んでいたレコードをいくつも聴いて盤起こしをしていった。ストレスとある程度潤沢な時間が1/6放送のNICE POP RADIOを特別なものにしてくれました。お楽しみに。

 

29日の深夜、モナレコードでうすやまさんのDJパーティ「涙」でDJ。長谷さん、哲人さん、関さんという音楽に愛された人々の選曲を楽しんだ。私のDJもとても楽しかった。大きい音で聴きたい音楽をたくさん聴けた。朝5時の手前、うすやまクラシックでもある「帰れない二人」の「東京上空いらっしゃいませ」ヴァージョンが明け方のモナレコードに響き渡ると眠たいはずのフロアに活気が戻り、多くの人がDJブースに詰めかけた。この景色だ。35にして酒も煙草もコーヒーもたしなめない大人になってしまったけれど、シラフで音楽の効力がねじまがったり、はね飛んだりする瞬間を知ることができた。

 

べろべろに酔った友人が「あのタモリが新しい戦前っていうなんて、モウロクしちまったよ」と言っていて、なるほど、永遠のオルタナティヴ、タモリが今暮らしているなら誰もが感じているはずのことをわざわざ言う、みなまでいうな、粋じゃないね、ということなのだろう、と一度頷いた。別の友人にその話をすると「いや、それをちゃんとテレビで言うのが」と返され、たしかに、と頷いた。

 

去年の年明けにある番組を見て、ずーっとムカついていた。その番組は大好きな芸人をパネラーに迎えたフェイクドキュメンタリーなんだけど、とにかく作りが粗く、ショッキングに見せたいものだけが不必要に浮かび上がる形になっていて、その前後やカメラがそこに在る意味などがなおざりになっていてフェイクドキュメンタリーの中の登場人物にも、それを見てるパネラーにも、彼らを撮っているカメラにすら気持ちが入っていかなく、ただただイラつくばかりだった。そうして友人に会うたび「観た?」と訊いては悪態をついていたのだ。そのテレビ番組を作ったディレクターが、年明けのNHKの特番で「吐き気を催す番組を作りたい」「嫌な気持ちにさせたい」と話されていて、なるほど、と頷いた。

 

 

ジュース概論

PUNPEEさんのライヴで大阪に向かう。ついでにプロモーションも組んでもらった。おれはまだまだ「SONGS」を聴いてほしいんだ。はじめて行くベイサイドのZeppはとても広い会場で、通された楽屋は運河に面していて大きな観覧車が見えた。隣には大きな立体駐車場があるのだけど、全く車は停まっていない。週末になるとUSJのお客さんたちの車であふれるのだろう。ライヴは最高だった。PUNPEEさんとライヴをすると本当に最高なんだけど、自分もこれぐらい大きい規模のライヴができるようになるのだろうか、と考え込んでしまう。俺はもっと頑張りたい、と楽屋で社長とそういうアツめの話をした。

 

Spotifyはプレイリストに入ると律儀にメールをくれる。新しく届いたのでどんなプレイリストなのかな〜〜〜って見に行ってみると「歌うJ-Rock」というプレイリストだった。プレイリストを見に行ってみると「Spotifyの新機能シンガロングを使って、みんなでロック!(歌詞ページ左下の🎤ボタンを押してシンガロング機能をお楽しみください)」と書いてあり、実際に🎤のボタンを押すと不自然にヴォーカルが奥に引っ込んだ。我々ががんばって納品したデータが🎤ボタンひとつ押すだけで不自然にヴォーカルが奥に引っ込む。我々は🎤ボタンを押して不自然にヴォーカルが奥に引っ込むために納品したわけじゃないのに……むごすぎる……

 

胃のあたりの不調の定期検診。3月ぐらいからずっと痛く、消化器科にかかり定期的にいろいろ検査を受けている。11/4のナイポレの生放送の裏で痛みがひどくなり「終わった……」と内科にかけこみ、9月の血液検査を見てもらったりいくつかの検査を経て、なんともない、とわかり安心しながらもなんだそれは……となっている。それ以降、症状は落ち着いていて、じんわり違和感がある程度になった。3ヶ月ぶりの採血はなんと一発成功。症状も落ち着いているので通院の期間もちょっと間を空けることになった。

 

スカートのワンマン。4年前にやった全体を俯瞰するようなライヴの続編のようなライヴ。セットリストは大いに悩んだのだけど、1曲目を「ひみつ」にする、となってからはわりとすんなり決まった。せっかくの椅子席でのライヴだったから多少は曲順がボコッとしてもいいだろう、ライヴハウスだったらやれないような似たようなテンポの曲が続くような場所があってもオッケー、などと考えた結果、そういうセットリストになった。自信のあるアルバムのリリースのあとだったからチケットのソールドアウトも期待したのだけど、あと僅かでソールドアウトにはならなかった。昔だったら「いつもどおりじゃん〜」で終わるのだけど、大阪でのアツい会話のあとだったから「ああいうことができたかもしれない」「こういう見せ方を宣伝の段階でできていたら違ったのかもしれない」などと思いを巡らせる。内容は受難の2022年を薙ぎ払うような上々のライヴになった。いくつもハイライトがあったように思えるし、「SONGS」が出た直後にこういう選曲のライヴができたということは大きな意味がある。

 

数ヶ月前、大家に部屋が手狭になってきた、引っ越すこともありえるかもしれない、と素直に告げていたら、となりの部屋が空いたという。「ベランダのパーテーションなんて取っ払っちゃっていいから借りちゃったら」というので借りることにした。2DKの1DKを友人に貸してシェアハウスという形を取った。11月から少しずつ隣の部屋に荷物を運んでいたのだが、すっかり寒くなり外に出るのも億劫になってしまった。中途半端に解体された部屋に積まれた書籍類レコード類が行く手を阻む12月。

 

ムーンライダーズのリハーサル。「便利な発電所と温和な労働者」を演奏しているときにくじらさんが「なんでこんなに難しい曲にしちゃったんだ」と笑っていたのだが、その数時間後には「鬼火」のアウトロに9/8の拍子をくっつけることになっていた。優介がよく言うんだけど「誰も楽をしようとしていない」が加速していて最高。本番は当日売り出されるポスターがあまりに最高で2枚買った。一生部屋に飾っていたい。

ミッドナイトだ それ集まれ

某日

ナイポレの収録。テーマは酒。選曲は最初はお酒について歌った曲を中心に集めていたのだが、なんだか行き詰まりを感じて別の路線に切り替えた。お酒を飲みながら聴いたらいいだろうな、という路線。より曖昧になって話すこともまとまらなくなり、いざ収録となった際、下戸でありすぎるがゆえに酒をテーマにした話が全く思いつかず気が遠くなった。まごついてしまう瞬間が何度もあり、シンプルに「終わった」と思っていたのだが大和さんがうまいこと編集してくれて、OA上は「酒について話すことないんだなこの人」ぐらいになっていたので助かった。

 

某日

何日か前に吉田豪さんがRTしたHanada編集長と斎藤貴男氏の対談を読んだ。それが何日も何日も尾を引いた。「そもそも、容疑者の恨みというのは何なのか。母の高額献金で家庭が壊れたのはもう20年前もことですよ。」と花田氏が言っているのを見て目の前が暗くなったのだ。安倍さんが「こんな人達に負けるわけにはいかない」と言ったことも頭をかすめた。今の居心地の悪さはなんなんだろう。学生の頃の居心地の悪さではないのだ。非常階段に座ってガラスの仮面を読むことでどうにか(ならなかったが)しようとしたときとは少しちがう。俺は俺の居心地の悪さを表現する言葉が態度が見つからない。

 

14日

車で福井に向けて出発する。福井はあまりにも遠く、何度か今の自分を疑った。ハードな移動があるたびに「スカートがもっと売れていたら」と嘆く。髷結ってふんどし締めてテレキャス持つしかないのか。そうしたら半年後には武道館が埋まるかもしれない。新作が出来上がってすぐだからナーヴァスにもなるのだ。私には重い空気がのしかかっていたが、静岡のサーヴィスエリアで佐久間さんがミニ四駆買っているのを見て気持ちが晴れた。もっと頑張ろう、と思えた。8時間近くかかってたどり着いてコンビニ飯を腹に沈めて就寝。

 

15日

福井でライヴ。会場に向かう田舎道の中をナンバーなし、ノーヘルのスクーターが駆けて行った。ヴァイオレンス・シティである。ボーイ不参加のこの日は、サウンドチェックでステージにあがった瞬間、行程と似て、ハードな環境のライヴになる、と確信して頭をハードモードに切り替えた。どういうことかと説明すると、各楽器のバランスを取りながらモニターできるライヴにはならない、ということだ。狭くないステージのはずなのに気持ちはo-nestで演奏していた8年ぐらい前のそれになっていて、ハードでタフかつスウィートにセットリストを駆け抜けた。やりきった。やりきったのだが何故か手応えがない。演奏もよかったはずだ。それなのに何かやりきれなさがある。どういうわけだ。そうか、帰り道もハードだからか。福井を少し過ぎたあたりの高速道路は夜の7時なのに深夜2時のような静けさだった。なんとかみんなの終電の前に東京に着くことができた。

 

某日

弾き語り盤のミックスを進める。「トワイライトひとりぼっち」とはちがう生々しさにしたい、とリヴァーブの類いはかけなかった。ミックスした音をゲームをしながら聴いたり、PCの画面に張り付いて聴いたりしてフェーダーを上げたり下げたりした。なんとか仕上がるが、迷いもあり、ヴォーカル0.5db下げのヴァージョンも作ってマスタリングに持っていく。タイトルは土壇場で「SING A SONGS」に変えてもらった。ミックスしているときに突然気がついたのだ。これは「SING A SONGS」じゃん、と。

 

20日

弾き語り盤のマスタリング。小鐡さんに自分の部屋で録音したものをマスタリングしてもらうというのは贅沢なんだけど、贅沢すぎて申し訳なくもなる。小鐡さんのスタジオのムジークが鳴るその瞬間まで落ち着かなかった。小鐡さんの手腕もあって、自分でも納得いくものができた。マスタリングの合間に昔の話もいくつかうかがったりした。当時のカッティングの話が主だった。ミックスは2曲だけ-0.5dbのものを使った。

マスタリングを8曲目まで終えて家に帰る。そのままNICE POP RADIOの収録。一度別のテーマで進めていたのだが、自分のなかでうまくまとまらず、収録の2日前に大和さんに泣きついて他のテーマにしてもらった。ずっと暖めていた秘蔵のテーマ、ブロッサム・ディアリーと3人のミュージシャン。サイ・コールマン、デイヴ・フリッシュバーグ、ボブ・ドロウの特集。途中、曲が良すぎて泣いてしまった。

Eleanor: If There Were More People Like You (From "Eleanor") - song and lyrics by Cy Coleman | Spotify

「エレノア」というミュージカルの主題歌になるはずの曲だったが、ミュージカルの制作自体が頓挫してしまったそうだ。他のいくつかの曲はその後の別の作品に転用されていったそうだが、この曲は次のミュージカル「シーソー」の試演会で演奏されて、カットされてしまったらしい。こんなに美しい曲あるかね。

 

21日

弾き語り盤、マスタリング2日目。やった〜!いい仕上がり。絶対聴いてくれ!!!

 

22日

久しぶりの仙台遠征。仙台につくなりレコードライブラリーを目指す。久しぶりだったけどお店が相変わらずで本当に嬉しい。ジャズは買わず、ゲイリー・マクファーランド男闘呼組のEPを買った。いかれてると私も思う。でも「TIME ZONE」のステッカー付きをはじめ、ノヴェルティがついているのがいくらかあったからまとめて買わないわけにはいかなかった。本当にいかれてると思う。短い滞在時間でレコードライブラリーを後にして、PARCO2の屋上でカクバリズムの20周年イヴェント。わたしは弾き語りとDJでの参加。弾き語りが特にうまく行った。ギターの音も歌声も一直線に飛んでいく気持ちよさがあった。直前の告知にも関わらずたくさんお客さんが集まってくれたこともあって、久しぶりに「人前に立てた」という気持ちになれた。一度硬くなった心が柔らかくなったのを感じる。ライヴが終わった後、オノマトペ大臣も見に来てくれてDJを聴いてくれた。萩の月のお土産まで頂いて「結局これが一番トべるんですよね」と伝えた。XTALさんのDJも最高で、Princeの"POP LIFE"をかけててその素晴らしさにぐっとくる。あまりにも歪んだ音像の最高のポップ・ミュージック。2日後に開催されたTerminal JiveでのDJで見事にパクった。その後、モーリスさん、XTALさん、OYAT増田くんと話せたのが嬉しかった。モーリスさんは買ったレコードの袋から透けるレコードを見て「ゲイリー・マクファーランド!?」って反応してくれた。素敵な日だ。この日は社長に無理を言って仙台に留まる。夕食を摂ろうとGoogleマップに星付きで保存されていた牛タン屋に行ってみると長蛇の列だった。近くに支店があるというのでそちらも覗いてみたが、そちらも長蛇の列。何もかもいやになり、諦め、そこでお弁当を買ってホテルで虚しく食べる。確かにうまいのだが決して満たされない何かが横たわっていた。部屋でゴロゴロしてコンビニに向かったのだがその道中、ゲロ踏んですっ転んだ。34年生きてきて初めての経験だった。靴とジーンズが少し汚れてしまった。きっとレコードライブラリーで男闘呼組を邪な気持ちでまとめ買いしたバチが当たったのだ。ホテルの部屋に帰り、泣きながら汚れてしまった部分を洗う。俺は仙台でなにしているんだ。

 

23日

洗ったはいいものの気持ちにケチがついたため大きいサイズの洋服を売っている店を探してズボンを買いにいくことにした。その道中、昨晩増田くんから聞いたそば屋に行こうと思ったのだが日曜日は定休日。さらに心が沈むが仙台の街を歩いていて森雅之さんの「ブレイクファースト」とという大好きな漫画を思い出してもいた。「ああ!美しい十月」。(正しい表記は友達に貸してしまっていてわからないのだけど)あの素晴らしい短編を頭の中でなぞる。気持ちのいい朝であることは間違いないようだ。途中、別の店でそばをすすったりして、店を目指した。昔ライヴをやったライヴハウスの楽屋から見えた落書きを訪ねたりしていたらホテルのチェックアウトも近づいてしまっていたので裾上げはあとでまた取りに来ることにした。計画性がないのだ。

ホテルに戻り、荷造りをしてほぼ定刻通りにホテルを出る。そこから歩いてJ&BでレコードとCDを数枚買う。ズボンを無事に受け取り、履き替え、ディスクノートに行こうとしたら突然の大雨。歩いていくつもりだったのだが慌ててタクシーに飛び乗った。雨はひどくなる一方だったのに突然止み、無事ディスクノートにたどり着けた。ハンガリーのジャズ・ピアニストのアルバムと、なぜかなかなか出会えなかったデューク・エリントンの「女王組曲」が買えた。バスに乗り、妻にお土産を買って東京に戻った。帰りの新幹線でトンネルがずっと続く。抜けたと思ったらまたトンネル。なぜかそれが心に残っている。

 

24日

昼間、夜にあるDJイヴェントのためにレコードを選ぶ。そのまま選びきれたら、よかったのだが時間が来てしまった。夕方、某所へ向かう。細野晴臣さんのプログラム、Daisy Holiday!の収録のためだ。カクバリズム20周年の一環で社長と一緒に出演。細野さんの音楽を聴いて人生が狂った、と言っても過言ではないのでこうやってご一緒できるのが本当に嬉しい。ミラクルライトで存在を知って、確か5年か6年のときに新しく入ってきた図工の滝沢先生に「好きな音楽はなんですか?」と訊いたら「YMOだな〜」と教えてくれたことをきっかけに興味が出て母にその話をしたら、家にレコードならある、しかしプレイヤーがない、という。すると父がレコードプレイヤーを買ってきてくれて、晴れて私の人生はめちゃくちゃになったのです。放送では緊張もあって変な言い方をしてしまったような気もするが、はじめて「泰安洋行」を聴いた後に学校行ったときの階段の感じとかを強烈に覚えているのだ。改めて記憶を整理してみると、その階段の先には図工室があった。滝沢先生にその衝撃を伝えたりしたのだろうか。思い出せない。それでも今でも私の記憶に残っているのは図工準備室で聴いた「omni sight Seeing」と「Medicine Compilation」だ。特に「Medicine Compilation」は「怖い」と思った。でも「泰安洋行」をはじめて聴いたときも「怖い」とまではいかなかったがそれに近い何かを思ったはずだ。その細野さんと話している不思議。長く続けるもんだ。

一度家に帰り、またレコードを選ぶ、という効率の悪すぎる方法でなんとかレコードを選んで小里さん主催のDJイヴェントTerminal JiveでDJ。さっきのさっきだったから細野さん関係のレコードを何枚か忍ばせた。