幻燈日記帳

認める・認めない

クラウス・ノミとは誰か



黒田恭一さんの書かれた、クラウス・ノミの日本盤LPの解説文が素晴らしいので転載します。怒られたらけします。


クラウス・ノミとは誰か?  ・黒田恭一


 このレコードでうたっているのは、クラウス・ノミという、かつてこの世に実在したはずの男(!)である。
 この男のうたう歌には現実感が不足している。当然のことに現実感の不足が歌の不名誉になるはずもない。この男のよってうたわれた歌は、現実感などという、いずれにしろたいしてあてになるはずもないものを誇ったりしない。クラウス・ノミは、これまでいかなる歌い手もなしえなかった方法で、歌を抽象化している。
 いずれにしろ歌というものは、その歌のうちに、それをうたった人間の肉体の痕跡を残す。その残された肉体の痕跡を感じとるところに、歌をきくたのしみがある。しかし、クラウス・ノミによってうたわれた歌は、性を喪失し、表情を放棄し、体温を失っている。クラウス・ノミの歌もまた、人間のおこないの結果であるにもかかわらず、あたかも案山子がうたっているかのような気配をただよわせる。そのような歌をきく聴き手は、歌にその歌をうたった男の肉体の痕跡を探すことさえしようとしない。
 にもかかわらず、聴き手は、これらの歌が人の口から発っせられたものであることを、忘れられない。忘れられないどころか、そこに肉体の痕跡が残されていないためにかえって、なまなましく人間を感じることになる。クラウス・ノミによってうたわれた、歌でありながら歌のぬめりを拭いさった意識的な歌のもつ逆説のドラマは、そこで成立する。クラウス・ノミとは、自分が人間であることを否定して、操り人形たらんとした男の名前である。
 これらの歌の現実感の不足は、これらの歌をうたった男の実在感の希薄さと、やはり無関係ではありえない。ここで思い出すべきことがある。クラウス・ノミの、あの不気味といえば不気味な、奇妙といえば奇妙な、化粧である。クラウス・ノミがその顔を白く塗りつぶしたのは、自分が人間であることを誰かに気づかれるのを、おそれたためではなかったか。そのあげく、白く塗りつぶされた彼の顔は、彼自身の顔であるにもかかわらず、人格を失い、仮面の様相を呈した。
 うたうという人間臭いいとなみをつづけながら、そのうたった結果であるところの歌を抽象化しようというのは、神をもおそれぬおこないであった、といえなくもなかった。クラウス・ノミに天罰がくだった、と考えるのは、おそらくロマンティックにすぎる。彼はただ、具象と抽象の交差する地点で足をすべらせて、その裂け目から落ち、この世から消えた。
 そうか、この人は、もうこの世にいないのか……そう思ってきいたとき、ノミの超現実的な声が、ひときわなまなましく感じられた。
 クラウス・ノミをしったとき、彼はすでに抽象の奈落にすべり落ちた後であった。不思議に、その事実が納得できた。少し前まで、クラウス・ノミは、現代の、つまりぼくらにとって同時代の音楽家であった。しかし、仮面の向うの彼は、時代の共有をも拒否しているかのようであった。彼の歌のなかに時の刻印を探すのは難しかった。世は歌につれ、といわれるが、案山子の歌はその生誕の時をさだかにしない。


 これらの時代の刻印のあいまいな歌を残したクラウス・ノミ自身もまた、生年が不詳である。しかし、生地はわかっている。南ドイツのバイエルン地方である。ベルリンの音楽学校で声楽を学んだ後に、スイスのベルンでモーツァルトのごく初期のオペラ『バスティアンとバスティアンヌ』に出演して歌い手としてデビューした。
 問題はその後である。ノミはベルリンの歌劇場のメンバーになった、といくつかの資料にある。ただ、そのベルリンの歌劇場の表記がBerlin State Operaとなっているものと、Deutsche Oper Berlinとなっているものとがある。前者は東ベルリンの歌劇場で、後者は西ベルリンの歌劇場である。いずれにしても、そこでノミがどのような役柄をうたっていたのがしりたいと思い、彼が在籍していたとおぼしき時期の両歌劇場のメンバーを、合唱団まで含めて、つぶさに調べてみたが、クラウス・ノミという名前をみつけだすことはできなかった。歌劇場でオペラをうたっていたときには別の名前を使っていたとも考えられなくはない。
 そのようなクラウス・ノミであれば、クラシックの作品をとりあげても、不思議はない。しかし、それにしても、ノミのとりあげるクラシックの作品はひとひねりした、一筋縄ではいかないものばかりである。『SIMPLE MAN』の2・4(*1)はイギリスの作曲家ヘンリー・パーセル(1659〜1695)の代表作であるオペラ『ディドーとエネアス』のうちの「ディドーのラメント」としてしられている音楽である。この悲劇的な色調をおびた曲は、これまでにも、ジャズ・ミュージシャンによってとりあげられたこともあるので、なるほどと思える。ただ、ノミはそれにくわえて、2・1(*2)をうたっている。これもまた『ディドーとエネアス』のうちの音楽ではあるが、それは「ディドーのラメント」のようには独立してうたわれることのない、魔女のうたう歌である。さらにこのレコードでノミは1・1(*3)で、これまた昔のイギリスの作曲家ジョン・ダウランド(1563〜1626)の歌曲「If my comlaints」をとりあげている。絶妙な作品の選択というべきである。
 「KLAUS NOMI」についても、同じようなことがいえる。2・5はあらためていうまでもなく、サン=サーンスのオペラ『サムソンとデリラ』のうちでももっともよくしられたデリラのアリア(実は、サムソンとの2重唱なのであるが)「きみが声に、わが心ひらく」である。2・1(*4)はパーセルの作品である。


 クラウス・ノミは、クラシック音楽とオペラをきいて、育った。そのようなノミにとって、12歳のときに初めてきいたエルヴィス・プレスリーは、当然のことにすこぶる新鮮に感じられた。クラウス少年はさっそくプレスリーのレコードを買ってきた。ところが、その種の音楽が息子に悪影響を与えると信じこんでいた母親は、そのレコードを持ってレコード店にいき、マリア・カラスのレコードと取り替えてきてしまった。
 このエピソードは、後のクラウス・ノミを考えると、なかなか暗示的である。ノミは、プレスリーを父として、カラスを母として、成長したのかもしれなかった。思えば、プレスリーもカラスも、それぞれの方向は違ってはいたものの、肉体の痕跡をその歌に色濃く残した歌い手であった。そういう両親のもとで育ったノミが、よくあるように親に反対して、抽象と具象の裂け目からすべり落ちたとしても、不思議はなかった。そのために、あの世でも、クラウス・ノミは、プレスリーにとっても、カラスにとっても、不肖の子として肩身の狭い思いをしているのではないか。しかし、まさにそこに、クラウス・ノミの栄光がある。


転載ここまで。