幻燈日記帳

認める・認めない

ベルベット・イースター



アラームで目がさめた。
昨日は恋人を家に呼んで、
7月10日にあるスカート企画の支度を手伝ってもらった。
疲れ果てた私たちはつかの間深い眠りに入っていました。
外はとてもいい天気なようです。
空調が利いたこの部屋からはなにもかも虚構に思えます。
眠ったままの恋人に声をかけ、支度をして出かけます。
自転車に乗ります。ペダルをこぎます。
するとどうでしょう、街道を走る車、舗道を歩く人々、
風が吹くだけで枝が揺れる木々、すべてが夏だ。
15分自転車をこいだだけなのに汗を結構かいた。
とても暑い外とは対照的に空調の利いた電車の座席に落ち着く。
音楽を聴くのもいいけど、本を読みたい気分だ。
だが鞄にはなにも入っていなく、数十分前の私を私は恨んだ。
急行で渋谷についた。一件打ち合わせ。
2時間半ほどの濃密な打ち合わせだった。
数字のことばかり考えていたらおなかが空いてしまったよ。
夕方を目の前に控え、渋谷を歩く。
目指すはHi-Fi Record Store。
松永さんに追加納品分のCDを納めた。
話をもうちょっとパキっとしたかったのだけれども、
どうしても次の用事があるので早々に退散。
少し歩くととんでもない雨。どうなってるのよ。
待ち合わせの有楽町に着いた。
昨日清水君から連絡があって、某映画の試写あたったんでいきましょ、
とお誘いを受けた。その映画を僕は、
へー、新しいのやるんだ、ぐらいにしか思っていなかったのだけど、
どうにも気になっていたのでほいほいとついていった訳だ。
大きいスクリーンで映画をみるなんて「コクリコ坂から」以来だ。
あれからもう随分経ってしまった気がしている。
まったくなにも知らないで映画館に来てしまった。
清水君は原作と思われる文庫本を鞄に忍ばせていた。
何度かブザーが鳴り、映画がはじまる。
試写なので感想はあまり書かない方がいいのではないか。
よくわからないのだが、とても印象的な効果音がいくつか、
たとえば、飛行機のプロペラの音や、火事を報せる鐘の音とか。
細かくかいてしまうと野暮なんだけど、そういう効果音のいくつかでは、
おそらく人間の声を加工ないし、無加工で使っていたと思う。
夢も希望も、諦めも混乱もすべて人間固有の感情だ。
飛行機のプロペラの音は人間から出るものでもないし、
もしろん鐘の音だってそうだ。でもそれを、一度人間のものにする、
という行為にとても興奮した。それは恐怖もあるが、おそらく希望だ。
感想はあまりかかないが、何度も泣いてしまった。
エンディングテーマとして私の大好きな曲がかかった。
1973年に発売されたそのレコードの1曲目をかざるタイトル曲。
レコードのノイズが少し乗って曲がはじまる。
あまりにきれいに終わってしまったので、
この曲で締めるのは、少しあざといかな、なんて思ったのだけれども、
登場人物のふたりを同時に描ききっている曲のように思えてなおさら泣けてきた。
明るくなった劇場で私は涙を吹くことも出来ず、しばらく、
少しうつむいたままでいた。
「生きねば」というキャッチコピーはとても重たいものだ、とやっと気づいた。
7Fの劇場から1Fまで降りる手段はエレベータ、エスカレータ、階段とあった。
明るい店内を抜け、エスカレータでひとつフロアー、ふたつフロアーを降りる。
なにか違う気がして清水君に階段で降りない?と提案して階段で降りた。
映画のことを反芻すると泣いてしまいそうになる、というか泣いている。
映画の主人公の声優は有名なアニメ監督で、
ネット上で「棒読みwwwwwww」みたいなことかいてあるのを見たぐらいだった。
最初は少し棒読みかな、とも思ったのだけれども、
素晴らしいもので、少しぼんやりとしたその声質は主人公の動きと合っていたように思う。
そして何より生活をしている人の声だ。演技ではない。
達者な人ならうまく演技できるかもしれない。
でもあのラストシーン、最後の主人公のセリフを聴くと、
どんな役者にもあの声は出せないだろうな、と感じた。
清水君とも多くを語らず、もくもくと夕食をつつき山手線に乗った。
神田駅で乗り換えて、中央線に乗る。
神田駅はまだ工事中だった。
鉄を削る音?火花が散っているような音が階段に響いていた。
階段を昇りきると酔っぱらいのグループが抱擁しあっている。
「乗り換え間違えるなよ」と言ってひとりが別のホームに行くため階段を下っていった。
電車が到着する、それに乗り込む、運良く席に座る。
流れていく景色を考えると、どうしてもさっきみた映像に結びつけたくなった。
ぼんやりしていたらもう吉祥寺についていた。
駐輪場で自転車を回収、またがる。夜になると少しは涼しかった。
家に着くとあたりまえなんだけど恋人が居ない。
恋人は夕方に友人と食事をするために家を出て、そのまま自分の家に帰った。
それを知らなかった訳ではないのに、とても寂しい気持ちになった。
いろんな言葉が頭をよぎる。
古い音楽に合わせてそれがなったり、ある詩集から言葉がこぼれてきたり。
ノートもギターもそれを雄弁に語ってはくれない。
では今ならその役目をなにに押し付けるべきか?
少し考えて至った結論は荒井由実の「ひこうき雲」をターンテーブルに乗せる、ということだった。