幻燈日記帳

認める・認めない

炎の文化人

18日

 

ライヴを終えて、物販に立つ。握手を求められても、以前だったら断っていたけど、最近は快く受けてそのままポケットに忍ばせていたアルコールをお互いの手に塗布するようにしていた。iimaさんを見て、タクシーを手配してもらい、小浜線まで出る。待合のロビーにものすごく見たことのある時計が飾られていた。ピンクとブルーで1時間経つと確か中から人形が出てくるものだ。覚えている時計なんて人生にいくつあっただろう。幼い頃の記憶をたどる。ひとつはいとこの山下家にあった鳩時計。もうひとつは子供の頃見た「ちいさい秋みつけた」のアニメーションに出てくる公園の時計。あれが超怖くて今でも打ちながら鳥肌が立っている。ところが形まで思い出せるものはこのぐらい。もうひとつあるとするならば、高六小のとなりにあったはすのみ児童館だろうか。

乗り遅れると一時間来ない小浜線に無事乗車して敦賀を目指す。翌日に控えたどついたるねんのライヴのためにどついたるねんを電車の中で聴いた。ぶっ飛んでいきさえしてくれない景色を眺め、この場所でこうやってどついたるねんを聴いている今というのは本当に尊いものだ、と暮れていく車窓を見て考え込み、思いを巡らし、ひとつの答えが出た。どついたるねんを聴いている場合じゃない。今回、家庭の事情から出演できない先輩のパートをいくつか歌うことになっていたのだが、最後のリハーサルで"R☆"という曲の「俺はカート・コバーンの生まれ変わりだ」というセリフを照れながら言っていたことがずっと引っかかっていた。どついたるねんの再生を停止し、Spotifyに「ニルヴァーナ」と打ち込んだ。そして「THIS IS NIRVANA」と銘打たれたプレイリストを聴く。1曲目に流れたのはかの有名な"Smells Like Teen Spilit"。ちゃんと聴いたのは前回の新潟遠征でDJ佐久間氏がかけてくれたのが初めてだったと思う。正直よくわからない。学生時代に特に話もしなかったけど、ニルヴァーナが好きだった矢野くんは今でも元気だろうか。それだけを思い出す。呆然と聴いていると、これまで自分でも驚くほど聴けていた曲が突然聴けなくなる。つい、スキップをしてしまったのだ。それはどうしてだ、と収録曲を調べてみるとドラマーがデイヴ・グロールじゃない、ということがわかった。デイヴ・グロールのドラムは最高、ということが1時間の間でわかったことが今回の収穫だった。この曲はなんか好き。

All Apologies - song by Nirvana | Spotify

敦賀から米原へ。米原から東海道新幹線に乗り換えた。東海道新幹線では40代のアベックがマスクを外してずっと喋っていた。俺の気持ちはどこへ行くのだ。東京駅まで迎えに行くよ、という妻の申し出を退けて荷物を抱えて自宅についた頃には23時を過ぎていた。

 

19日

どついたるねんの「伝説の一日」に向かう前に部屋でもう一度NIRVANAとついでにレッチリも聴いた。"先輩のライクアローリングストーン"という曲に「打倒柴田聡子 or ジャック・ジョンソン ノンノンノン ジョン・フルシアンテ」という詩が出てくるためだった。つまらなそうにニルヴァーナを聴いていると「ニルヴァーナはね、MTVアンプラグドっしょ」と妻。行きの車でも首をかしげながらニルヴァーナを聴いた。FEVERに到着。久しぶりに岩淵さんに会えて嬉しい。リハーサルの段階で轟音過ぎて途中で受付で売ってた耳栓を買う。アンコールの「鳥貴族」をやったときに先輩の合いの手である「イッツ・オールド・スクール!」という掛け声もカラオケに入ってるということを失念していて、おんなじタイミングで「イッツ・オールド・スクール!」と言ってしまって俺はどれだけ先輩が好きなんだ、と恥ずかしくなってしまった。リハーサル終わって優介と3人でラーメンを食べた。本番では自分なりのパンクを気取り、歌うとき以外は極力マスクをして演奏した。異常な轟音の中で歌をうたっていたら速攻で声が飛んだ。ライヴ中に龍角散ののど飴をなめたりしたが、ダメージは残り、終演後、致死量とも言える量ののど飴をなめ散らかした。ステージでは可能な限りふざけるんだけど、演奏は手を抜かない、という1曲目が始まったときに降りてきたコンセプトに則り、ライヴは本当に手応えがすごかった。とにかくスペシャルな演奏になったと思う。この動画、公開されてから一日一回は見てます。

BESTHITS LP発売記念ライブ「伝説の一日」より人生の選択~R☆~080 - YouTube

 

20日

冷房の設定を間違えたらしく寒くて目が覚めた。やってしまった。喉と鼻の間が痛い。喉風邪をひいてしまった。昨日のライヴで声も潰れてしまった。龍角散を手放せない一日を過ごす。一度ゲップをしたらどんでもない味のゲップだった。目が一発で覚めるようなもので、龍角散の変な味の部分が20倍ぐらいに濃縮されたのが頭部いっぱいに広がった。

 

21日

スケジュール帳には「掃除大会」と書いてある。それに加えて、デモを制作。メンバーにデモを送信。掃除はもちろん進まなかった。喉風邪はひどくならず、いつものやつだな、と感じたが、鼻水がアレルギーのように出る。悪い予感もしてスーパーで野菜や肉を買い込んだ。

 

22日

朝起きると耳閉感がある。ここまで熱はまったくの平熱。こりゃなんにせよよくない、医者にかからねば、と近くの町医者に電話をかける。すると「来週の水曜日まで予約でいっぱい」と非情の宣告。妻を送る道中で抗原検査キットを購入。部屋で検査をする。抗原検査は何度かやったことがあるが、信じられないほど「あっ、これ絶対ダメじゃん」という速度で陽性の判定が出た。慌てて関係各所に連絡を入れる。マネージャーが根回しをしてくれて、近い病院で診てもらえることになった。と、言っても陽性はもう確定なので、保健所への連絡がスムースに行くための診察とのことだった。現在の症状を話す。熱を測る。37.7。待っていると、向かいに中学生ぐらいの女の子が母親と座っていて、女の子が泣き出してしまった。「わたしXX行けないじゃん」と言っていた。夏休み入ったばかりの学生を地に落とすような現状に納得がいかない。俺がもし紳士だったらこんなときカバンの中から何か楽しいものでも取り出せるのだろうか、とカバンを見てみたが、福井で頂いた奇妙礼太郎さんの新譜と、福井の帰り道に読もうと思って一切手を付けなかったボリス・ヴィアンの「北京の秋」が転がっているだけだった。

診察を終え、症状がとても軽い、という自覚がだんだんと出てきた。妻とうまく連携して入れ替われるように部屋を変わってもらう。医師と相談した結果、この時点では抗原検査で陰性だった妻はホテルへ逃げてもらうことになった。翌日にはホテル療養入れるかな、と思っていたが、病院でもらったホテル療養などの説明が書いてある紙を見て、朝9時から4時までの受付だと知る。夜が深くなると関節がふわふわしてきて、熱がじわじわ上がっていった。38.4を確認して解熱剤を飲む。目が覚めたらよりひどくなっていたらいやだな、と思って何故かなかなか布団に入れず、4時過ぎまでずっとゲームやっていた。NICE POP RADIOを聴きながら自分で選曲したはっぱ隊の「YATTA!」にものすごく心が揺さぶられた。「生きているからLUCKYだ」という詩は本当にすごいな。泣いてないけどほとんど泣いてた。

2022年7月22日(金)20:00~21:00 | NICE POP RADIO | α-STATION FM KYOTO | radiko

 

23日

目覚ましより早く目が覚めた。喉がちょっときつい。ピリピリするのだ。悪くなった部分もあるが、熱は下がったようで、37.1。寝起きにしてはやや高いが、平熱という意味ではこんなもんだ。熱が下がったことにより、何でもやれそうな気がする。でもぼんやりする。少しでもポジティヴに考えていないと気持ちが折れてしまいそうなのだろう。まったく繋がらないホテル療養相談センター。あまりに繋がらなかったので渡されていたホテル療養の説明の紙に書かれていたQRコードの一番上の電話にかけてみたがもちろん「そういうことじゃない」と言われてしまった。でもホテル療養相談センターは300台の電話で対応している、と教えてくれた。繋がったと思ったが、この時点で声が出しにくい感じになっていて、電話で「名前は?住所は?どこの病院で診てもらいましたか?」などをいちいち声に出して説明するのがあまりにだるい。潰れてしまった声だったため向こうも聞き取りづらかったらしく、何度かやり取りが往復したり、訂正するのに「これってインターネットじゃだめだったんですかね……」と漏らしてしまった。これって電話以外じゃダメだったの?この2年半何してたの?

そうしてホテル療養の受付だけが完了。細かいことはまた折返しの電話で説明する、とのことだった。夕方まで眠る。折返しの電話で「明後日にならないと部屋があかない」と言われる。事情を説明して、妻が今後もし陽性になることがあったら我々は部屋にいていいのか、そうなったらホテル療養のキャンセルはどうするのか、などを質問する。「前日の夕方以降にどこのホテルに入るか電話が行く。そのときでも大丈夫だし、ホテルに入るため、当日に迎えに行く際、電話で連絡するからその段階でもキャンセルは可能」と言われる。妻にも報告。録画して5年観てなかったビデオを見たりして1日があっという間に過ぎた。

楽しみにしていた崎山くんとのクアトロも延期が決まってしまった。せっかくなので延期と同時に振替の日程も出したいそうだ。そりゃそうだ、二度手間になるからまとまったからにした方がいいに決まってる。しかし、クアトロの空き日と我々のスケジュールが合わなく、調整は難航。(即発表にならなかったのにはそういう理由がありました)

 

24日

妻から連絡があり、妻も熱があがってきてしまった、そうして実家の猫も亡くなってしまった、とのことだった。渡してあった抗原検査キットをやってもらうとやはり陽性。発熱相談センターに電話をして、熱だけはすっかり下がってしまった私がホテルまで車で迎えに行く、というのが最善、と判断された。妻を迎えに行って複雑な気持ちになる。ホッとしたような気もするが、マヤちゃんの死に目に合わせられなかった原因を作ったのは俺だ。その後悔ものしかかってくる。生活とは。

車に乗り込んで妻を迎えに行く。街はいつもの日曜日だった。

妻が陽性ということがわかったため、また発熱相談センターに電話をかける。これがまた繋がらないんだ。なんで電話じゃないとだめなのこれ。ようやく繋がってまた出づらい声でいちから説明していく。「旦那さんが診てもらった病院で診察してもらうのがいい」と言われ、仕方がない、翌日に病院に電話することになった。

妻の熱は引かず、解熱剤飲んでようやく37度後半に落ち着く程度だった。妻は汗をあまりかかないので、汗だくになって布団で寝転ぶ姿を見るのは衝撃的だった。

実家の父と母から連絡があり、妻も陽性、予定していたホテル療養がなくなったことを伝える。そうするといくつか食料を届けに来てくれる、というのだ。素直に甘えて納豆や牛乳、卵や肉類を買ってきてもらった。

夜中、苦しくなる。しかしこの苦しさは見覚えがある。ストレスから発症する喘息の症状のひとつだ。でも、そうじゃなかったらどうしよう?と頭をよぎる。パルスオキシメーターも家になかったから不安になり、余計に嫌な気持ちになった。

 

25日

本来だったら今日からホテル療養のはずだが一向に連絡は来ない。それともうちうちにあそこの家は嫁も陽性だからという情報が行って自動的にキャンセルになったのだろうか。診てもらった病院があく時間の少し前に起きて、電話をかける。全く繋がらない。携帯片手に台所に立つ。昨日、父母が買ってきてくれた生鮮食料品の中にもうあとは揚げるだけのチキンカツも入っていて、それの賞味期限が一番近かったので揚げて食べた。結局150回ぐらいかけ直して、2時間過ぎてようやく繋がった。事情を説明すると、今からは無理だけど夜だったら診ます、と丁寧に説明してくれた。ひと安心。そうこうしている間に澤部渡新型コロナウイルス罹患に伴い7月27日のイヴェント内容の変更が発表された。表向きのちゃんとした文章は崎山くん側の発表とカクバリズム側の発表があるから、ぼく個人としては軽めにしよう、軽症をアピールしたほうが心配かけない、と思って要約すると「軽症で〜〜す!チキンカツ食ってま〜〜〜す」みたいなツイートをするが反感を買ってしまったようで反省もしている。慌てて深刻なツイートも併せてしようとしたが、どうしても文字数が足りないとわかり、諦め、適当な感じになってしまった。俺の諦念があのツイートに漂っている。それとは別に「気持ちを切り替えて、在宅ライブしようぜぇ〜!!」とリプライが来てめちゃくちゃ腹がたった。いちいち説明しなきゃいけないのか。軽症だけど軽症なだけであってしんどいはしんどいんだよ〜〜〜〜とか、崎山くんとのツーマン、それも渋谷のクアトロというところに意味があるんだよ〜〜〜〜〜とかいちいちツイートしないとわかってもらえないのか。

夜、妻の診察をしてもらう。僕も軽く見てもらう。血中酸素濃度も問題なく、やはりいつもの喘息だった。とひと安心。一緒にいるけど僕の自宅療養期間は変わるのか。などなどいくつか質問もした。72時間、熱が出なければ、7/30に自宅療養期間が終わることに変わりはないそうだ。

寝っぱなしでいられるほど熱があるわけでもないので、かと言って集中できる感じでもないので、頭を使わなくていい作業をいくつかやる。その中で一番大変なのが部屋の掃除だ。