幻燈日記帳

認める・認めない

マンラグ

15日

板橋は高島平で行われるITa Fesに出演。the band apartさんの主催のイヴェントに呼んでいただいた。当日は生憎の雨、アコギにトラブル、などなど悪い条件も重なったが演奏は調子が良かったように思う。佐久間さん不在だったために、アコースティック・セットだったけどリハーサルのときに「もうちょっと16っぽい曲やっても大丈夫そう」となり追加した「回想」は出色の出来だった。普段のライヴとも違い、ゆったりと間合いを取れたのもよかったのかもしれない。会場となった場所は夏になると花火で盛り上がるあたりだったはずだ。花火の思い出も35歳になってくすみ始めていて、そんな思い出あっただろうか、と思うザマである。生まれた街でこうやって歌をうたうのなんでいつぶりだろうか。小学生の時に団地のお祭りに同級生と参加してPUFFYの「これが私の生きる道」を演奏したとき以来ではなかろうか。あの日とは随分勝手が違う。でもあの日のことは今でもよくおぼえていて、露天に売られていたプリズムに心奪われていた記憶のように、協賛のタニタさんのブースで買った万歩計を見ながら、この日のこともまたいつか思い出すのでしょう。高島平の思い出はこちらを御覧ください。

西台・高島平 ─ 努めて忘れようとすれば、常に曇天のノスタルジー | スカート・澤部渡 - SUUMOタウン

 

16日

妻と大関さんことゼキさんとグレイモヤを観に行く。みんな面白かったのだけどトリのダウ90000が本当に素晴らしすぎた。おかしくて切ない、というのはビリー・ワイルダー男はつらいよをみた10代中頃以降の私に巣食ったテーマのひとつなのかもしれない。感動して深夜までココスでゼキさんと語らう。

 

17日

友田オレ氏の単独を観に行く。客入れのBGMがJAPANのTin Drumで腰を抜かした。グッドメロディに乗せて麻生太郎家系図(女性は省略されていない!)をたどる、というネタがとてもいい意味で虚しく響く。

友田オレ『たどる思い出』 - YouTube

 

18・19日

カレンダーには「作曲」と入力されていたがなにも出来なかった。

 

20日

医者に行って、そのあと散髪という予定で、妙に時間が空いたので荻窪から吉祥寺へ向かうのを電車ではなく、南善福寺行きというよくわからないバスに乗るだけ乗って南善福寺に着いてから考えてみよう、としてみた。南善福寺のバス停も知らない場所ではなかったし、そこから20分ぐらい歩いて吉祥寺にも出ることが出来た。なんなら暑いぐらいの4月に戸惑う。「4月でこんなに暑かったら8月どうなっちゃうのよ」と家に帰って妻にいうと「テレビで熊谷市の人が一言一句違わずおんなじこと言ってたよ」と教えてくれた。

散髪に向かう最中に昨日一昨日のあがらなかった成果の「作曲」という言葉が突然のしかかってきた。どうやったら自分は変わるんだろう、しかし変わりたい自分がなまけものの自分なのか、大して売れないような曲を書き続けている自分なのか判断がつかなくなった。「今日はどうしよう?」とシゲルさんに言われて、「例えば、髪型を変えるとしたらどういうのがいいんでしょう?」と訊くだけ訊いてみて、デコを出す方向で髪を切ってみることにした。鏡の前ではいい具合にも見えたのだが、帰る頃にはまた長く歩いたこともあり汗をかき、普通にぺったんこになっていてなんとも言えない気持ちになった。

 

21日

ナイポレの収録。「本当にインターネットにない曲特集」と風呂敷を広げて収録を開始したのだが、収録中にリストにあがっていたうちの2曲がインターネット上にあると発覚、急遽組み直しすることになった。以前、サブスクにない曲特集をやった時にヘッド博士はサブスクにないよね、と「GROOVE TUBE」をかけたのだが、放送後にシングルズに収録されていたのがサブスク解禁されているとリスナーから教えてもらったという経緯があったので慎重にもなるのだ、ふふふ、ははは。絶妙なラインの曲がたくさんかかる個人的にはいい回になった。