幻燈日記帳

認める・認めない

さん回となえろ

26日

10時から胃の医者にかかるために早起きしてバスに乗る。平日の昼過ぎ、乗客はあまりいなく、景色を流すのにはうってつけの日だった。受付をすませて、待合室でもう何ヶ月読んでるんだ、赤毛のアンを読みながら待つ。しばらくすると名前を呼ばれて診察室に入る。すっかり良くなったわけではないのだがじわじわと良くなっている、と伝える。痩せなきゃね、と言われていたのにいろいろあって全く痩せられていないことだけが心に棘が刺さる。しかし刺さった棘はすぐに忘れてしまうのだ。

14時から事務所で打ち合わせがあったので吉祥寺に出る。早いけど移動して向こうで飯でもくおうか、と考えたのだけど井の頭線は停まっていたようで人だかりができていたので街をうろつく。時間をつぶすのが本当に下手だ。いくつか店を覗いたあと、電車は動き出していたので電車に乗る。文庫の続きを読み、駒場東大前で降りて菱田屋で昼食と洒落込んだ。

それでも1時間以上早く着いてしまっていたのでむやみにあるく。どこかに喫茶店はないものか。と検索してみると、手頃な店がない。高速を挟めばあるみたいだけど高速の向こう側に行くのは、少し面倒なのだ。結局30分ぐらい歩くだけ歩いてどの店に入る気持ちにもなれず、事務所のインターフォンを押すに至った。ああ。私は、私は。

 

27日

仕事で拝島に向かう。道は驚くほどまっすぐ、そして驚くほど片側一車線。30分遅刻。痛恨。無事に仕事は終わり、ずっと行ってみたかったシャーロック・ホームズでハンバーグを食べることもできた。食べたことのないとろっとろ、びっしゃびしゃの食感のハンバーグで最高。納豆のソースも最高。プレートに残った油と納豆のソースが俺を見つめていた。米じゃなくてパンにするべきだった。シャーロック・ホームズの店内はイギリス風味ではなく、超アメリカンだった。帰路で2件のハードオフチャンスをものにして、あまりにも最高のジャケットだったので「あぶない刑事」のサントラを800円で購入。妻の誕生日でもあったのでケーキを買って帰る。

 

28日 / 29日

翌日に迫ったNICE POP RADIOの収録のためにかなりの時間をかけて選曲をしていた。今回はギター特集。日記にはかいてなかったけど、空いた時間でコツコツやってきていて、近年では一番時間をかけて選曲したし、候補に入った曲数も膨大になっていた。なにより、自分自身がギターに向き合う、という過去にやらなかったことをやったため、かなり心に来た。しかしまとめて見ると、いつもの感じになったような気もして、なんとも無駄な時間を費やしてしまったのだろう、と悲嘆に暮れる。収録はもんもんとしながらだったので果たしてどうなることだろう、と思っていたのだが、さっき完パケデータ聴いたらいい回でした。ギタリストとしての私とは一体何なのだろう、ギターとは一体何なのだろう、という問だけが今は転がっている。

 

30日

夜中にダウ90000が栃木の大衆演劇場でライヴやる、という告知ツイートが流れてきて妻と目を丸くする。なぜ。一体何が起こっているのだ。そしてリンクを踏んだらこれはいかなくてはならないのでは、と決意を固める。大衆演劇は17年前に一度観ている。その時は美術部の合宿で行った宿(確かホテルニューおおるりじゃなかっただろうか)(後日追記:万葉亭だ!!!!)の夕食の会場で観たのだ。その時の異文化っぷりに我々は熱くなり、しばらくの間は出演していた子供が演じていた「船方さん」がアンセムと化すようなことも起きた。ともかく我々は翌日早起きして栃木に向かうことにした。

 

2月1日

車は順調に北上、定刻通りに船生かぶき村に着いた。建物の外見からとんでもないグルーヴが滲んでいる。そして劇場にあがって更に濃いグルーヴを受け取る。おにぎりと無愛想なからあげのパックと一緒に座席に案内される。周りを見渡してみるがダウ90000目当てで来たのは我々だけのようだった。とても濃い空間。ここでダウは一体なにを……。劇団駒三郎のプログラムが始まる。人情物の劇。驚いたのはとにかく劇のBGMの音量やマイクの音量が爆音だということ。しばらく経って私は妻からティッシュを受け取り、丸めて特に弱い右耳に詰めた。妻がよく「お宝鑑定団は音がでかいんだ」と言ってテレビのリモコンに手をかけている様子を何度も見たことがあったのだが、これもきっと同じ現象の器の上の出来事なのだろう。劇がクライマックスを迎え、ご婦人たちが涙に暮れる中、BGMがグンと大きくなる。Shazamしたら五木ひろしさんの「裏通り」という曲だった。面積考えたらそこらのクラブよりも大きい音量でかかっていて、この経験できただけでも栃木に来てよかった、と思えた。

その後、お客さん参加のカラオケコーナー(全員うまい)をはさみ、踊りのコーナーへ。あ、これリップシンク守谷日和さんの「表現」の中間だ、となり大変ぶちあがる。その中で劇団暁さんか劇団駒三郎さんのどちらかが演目に取り入れられていた「484のブルース」があまりにカッコよくシビレ散らす。グルーヴ演歌、とでも言えそうな内容でめまいがした。

484のブルース【歌、録り直しバージョン】/平田満(幸斉たけし) - YouTube

劇団の公演が終わり、始まったダウ90000はなんと新作コントだった。ここまでアウェイなダウもはじめてだろう、と思ったのだが、大衆演劇に寄せることなくやりきる8人はかっこよかったし、お客さんたちも暖かく迎え入れている様子が美しかった。すべての演目が終わり、劇団とダウのエンディングトークが気持ちよくはずんだところで客出しBGMとして「ダンシング・ヒーロー」がかかって、なんというかなにもかもがどうでも良くなった。大きいことも小さいことも悩むことがたくさんあって、人生の苦味を噛みしめる昨今、芝居がハネて「ダンシング・ヒーロー」さえかかっちゃえばすべてオッケーなのである。栃木の夕陽はそう教えてくれた。

レコード屋を一軒、見ていくことにしたのだけど、そこが空いているかどうかわからず、検索していくうちに移転したかも、という話になり、どうやら蕎麦屋の一部に構えているらしい、という怪情報を得る。実際電話してみると、実在していた。安くレコードがいっぱい買える、というよりは品揃えが変なところ抑えている感じで興味深った。嬉しい新入荷あります。来週のナイポレでかけますので是非。

帰り道、街灯ひとつない東北自動車道を走りながら2008年のフジロックを思い出したりしていた。付き合ったその年にふたりでSPARKSを観に行ったのだ。あれから15年が経つ。今ならきっとできないことをあの頃のふたりはやっていた。今から15年経った頃、栃木にダウ90000観に行くなんて今はきっとやれないね、とふたりは笑っているだろうか。

UKAGNO

20日

打ち合わせが終わって、渋谷のWWWにayU tokiOと柴田聡子のツーマンを観に行く。車で行ってしまったため、どこに停めようか迷いに迷ったが、遅れそうだったのでWWWの目の前にあるPARCOの駐車場に停めることにした。時は金なり。雑多な売り場を抜けてWWWへ着く。開演前だった。ちょっと階段を降りただけで知り合いに会う。楽しい夜の予感がしていて、実際、楽しい夜だった。アンコールでファズを踏みながら「米農家の娘だから」を弾き語るあゆくんは、『遊撃手』のジャケットのそれであった。挨拶ぐらいすればいいのになんともシャイな気持ちが出てきてしまってそのまま帰ってしまった。とてもいい夜だった。

 

23日

ガイアの夜明けで観たガレットがあまりにも美味しそうで、妻と二人で日本橋三越で開催されていた北海道展へ行く。お目当てのププリエのガレットは美しく、気品に溢れた素晴らしいものだった。いつか札幌のお店に行きたい。他にもパンやらいろいろ買った。未来は明るくないかもしれないがしばらくは楽しい気持ちでいたい。

 

24日

収録と青柳くんの整体を経て池袋のココナッツに顔を出す。取置の受取で行ったのだけど、いいCDがいっぱいあったのでついつい買いすぎてしまった。ジャケ買いからそういや聴いてこなかったものまで、果ては旧規格版のマーティン・デニーの帯かわいい〜とか言いながら買った。せっかく久しぶりに来たんだから、とデパートに足を伸ばす。妻から西武の地下に味小路という新しくできた諸国銘菓のつえーやつができた、と教えてもらっていたのだ。いざ行ってみるとめまいがするほどのいい空間だった。私の知らないおいしいものが日本だけにもこれだけあるのだ。いろいろ買って帰った。音楽と食い物だけで生き延びているような気がする一日であった。

 

25日

MURAバんく。の土屋くんと日常レストランに行くため、渋谷のPARCOに向かう。ユニオンで落ち合うことにして先輩ミュージシャンとして小粋にレコードを買う背中をみせようと試みる。多分、小粋でもなんでもなかった。ジジイみたいな話をするけど「日常」は1巻が出たとき、働いていた書店で新刊コーナーに棚刺しになっていて、これは絶対なにかある、と手に取り、帯の裏に記載されていた「あらゐだらけのけいいちまつり」の文言にやられて購入してからのファンなのでこうして大ヒット作になって、前のシェアハウスの住人たちと話を咲かせたり、後輩ミュージシャンとこうやって日常を介して交流が深まったりするのは本当に、勝手だけど、嬉しい。オーダーしたロールケーキは量が多く、かつ大変甘いので、翌日までダメージが残った。土屋くんを家の近くまで送ったのだが、後半は甘さにやられてぼーっとしていてどういう話をしたか思い出せない。部屋に帰って甘さの回りが落ち着いてきた頃、買ってきたレコードを聴く。すごくいい内容なんだけど、とにかくジャケットが最高。こんなに良いジャケットのレコード久しぶりに買った気がする。

open.spotify.com

ゼイ・セイ

18日

 

京都の磔磔でライヴ。台風で延期になってしまったもんだから予定は組みなおし。平日になってしまった。今日は久しぶりの新宿集合。10年前の1月も京都でライヴがあったな、なんて思い出していた。朝早かったのに電車はもう混んでいて、座れず、文庫も開く気分になれなかった。閉まっている小田急の前での集合。10年前と違うのはそこだ。車で京都に向かう。優介と佐久間さんはずっとしゃべっていて、この感じは10年変わっていない。秋山さんのスーパー運転により遅れることなく磔磔についた。磔磔は何回来ても気持ちがシャンとする。ここ数日なんだか心が閉じているような気がして、うまくライヴできるだろうか、とちょっと思っていたのだが、磔磔の入り口に立つだけで気合が入った。リハーサルで半分ぐらい曲をさらって、アンコールの「静かな夜がいい」のセッションリハーサル。半分ずつぐらい歌う、という内容だったのだけど、信じられないぐらいの曽我部さんの声。あまりに圧倒されて、落ち込みそうだったけれど、逆に奮い立った。

この日、サニーデイPAとして同行してきたのは「ストーリー」と「ひみつ」を録音してくれた馬場ちゃんだった。13年続けてそれぞれの成果が自分たちの見えるところで開く瞬間というのは実にいい。

サニーデイのリハーサルが「月光荘」で始まったとき、今日は絶対にいい日になる、と確信した。

ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて30分ほど眠った。どうやらこれが正解だったらしく、移動で溜まった披露は吹き飛んだようだ。ホテルから磔磔へ向かう途中、佐久間さんとなおみちさんとロビーで鉢合わせ、3人で京都の街を歩いた。佐久間さんと「あの頃は僕らも全員20代だったもんね」、と笑う。

カクバリズムの20周年公演なのでサニーデイが先行。新旧織り混ざった絶妙なセットリストで最高だった。海辺のレストラン、苺畑でつかまえて、ときて、魔法のフィルインが始まったあの瞬間は自分の中で永遠だった。

スカートのライヴもここ最近のライヴでは屈指の出来だったんじゃなかろうか。アンコールのセッションでは本番よりも声が出ていたらしく、終演後メンバーやスタッフに笑われた。磔磔で軽く打ち上げ。ボーイがとても気の利いたジョークを一つ言ったのだが、それがなんだか思い出せない。とにかく最高の夜だった。

 

19日

メンバーは一泊して車で東京に戻る。私はそのまま京都に残り仕事をして帰ることになった。その前に宿の近くのCD屋でいいところ掴んだ。経営の危機だというホットラインにも寄っていつもより多めにレコードを買った。すぐ近くのリンデンバウムにも寄って甘いものも手に入れた。KBS京都に移動してラジオ番組の収録。膨大なレコードライブラリーから選曲するという番組で、いつか出たい番組のひとつだった。松永良平さんがつないでくれて出演が叶う。KBSのレコード室は入荷した順番にレコードが並んでいて、4時間近く選んでいたにも関わらず66年ぐらいから73年まで、88年から89年までしか見れなかった。夕方の京都にあの曲が鳴り響いたらそんなに素敵なんだろう。放送の日取りが決まったらまたお知らせします。もうひとつはNICE POP RADIO。悩みに悩んだのだけど高橋幸宏さんの特集を組んだ。追悼、というのがどうしても苦手になってしまった。記憶がおぼろげなのだけど、忌野清志郎さんが亡くなったときに、交流もあったシンガーソングライターが「どうして死んでからこう持ち上げるんだ。生きていた晩年の彼を世間は評価してなかったじゃないか」というようなことを言っていたことが自分にも当てはまってしまったからだと思う。あの頃、僕も若くて、晩年の活動を見ていて「自分からKINGとかGODとか言っちゃうのはなんか違うよね」とか自分勝手に思っていたのを見透かされたような気がしたのだった。でも悲しいのは悲しくてさらにどうしたらいいかわからなくなったことをよく覚えている。それ以来、著名人が亡くなったときにどう対処していいかわからなくなってしまったのだ。そして、自分も幸宏さんの優秀なリスナーではない。過去のアルバム、特に90年代のアルバムで聴いてこなかったアルバムがいくつかある。そういう事情もあって特集を組むかものすごく迷ったのだけど、気持ちに整理をつけないまま選曲を進めた。だからこそ、収録は大変だった。選曲はギリギリまで迷ったし、最初のリストから急遽変えた部分もある。「BLUE MOON BLUE」からかけるべきか、「audio sponge」からかけるべきか、結局後者を選んだのだが、前者が収録から1週間経った今でもチラついている。不安定な放送になってしまうかもしれないけれど、よかったら聴いてください。

収録が終わって、一泊するか東京に帰るか迷って、終電ギリギリで東京に帰ることにした。せっかくだからゆっくりするべきだったかもしれないが、なんとなくこうして正解だったような気がしている。

 

それはただの気分か

15日

リハーサル。去年から15日にリハーサル入る、と決めて、スタジオも取ったつもりでいたのに前日に取っていないことを思い出して慌てて抑える。びっくりした。こんな気の抜けたリハーサル初め。一ヶ月だから久しぶりのというわけでもなかったはずなのに、リハーサルの所作が体から抜け落ちていて、大きい音が鳴っているということに対して体がついてこなくてとにかく疲弊した。年齢のせいだろうか。正月気分が切り替わっていなかったのだろうか。

 

16日

夜、ゲストで出演するラジオの収録だった。21時から23時半、とGoogleカレンダーにかかれていて、そんなに話せるだろうか、と不安だったのだが、実際あっという間だった。自分の半生を振り返る前半、現状をどう考えるかの後半。一種のカウンセリングでもあったような気がした。都合のいいようにフタをしていた記憶もいくつか開いてしまってちぐはぐになってしまった部分があるような気もする。傷つくことによって至るセラピーがあるのかもしれない。社長の車に京都で使う機材を詰め替えて、部屋に戻るために車を走らせた。人気のない夜の街道沿いのガソリンスタンドで給油をしているときに車内ではシャッフルでフィッシュマンズのベスト盤のDisc2に入っている「それはただの気分さ」のデモが流れた。静かな夜、寂しい夜である。どうして今夜、私は夜を歩いていないんだろう。車に乗り込んでもう一度最初から「それはただの気分さ」を聴いた。そのまますぐに家に帰れる気がしなくて、遠回りをすることにした。ハンドルを握りながら、ひとつの諦めが胸に降りてくる。カーブを曲がる。スピードを落とす。信号が青になるのを待つ。少し走って左折のウインカーを出す。

ダンス無重力

12日

深夜までナイポレの収録のため、数日間続けていた選曲作業のつめに入る。膨大に膨れ上がった選曲リストから間引いて間引いて完成。それでもトータルの分数から察するに放送尺が足りないなんていうこともありえる、と予備も数曲選曲。アルバムの制作やプロモーションが一段落したからじっくり選曲に向き合えてたのしい。

 

13日

iPhoneのechofonが使えなくなる。調べてみるとサードパーティのクライアントは締め出されてしまったそうだ。Twitterの公式は通知を見るため、echofonは公式の検索がほとんど機能しないため(マイナスの指定などが反映されない。リスト化して見づらい)エゴサーチの鬼として使用していた。そしてリストを見るためのbuncho、PCでの閲覧はTweetdeckという具合。bunchoとTweetdeckは生きていたためあまり支障がないが、エゴサーチがちょっとしづらいだけでちょっとデジタルデトックスが遂行された気持ちになってほんの少し気分が良かった。これからはブログの時代だ。

腰の痛みに音を上げ整形外科の診断を受ける。1年ぶりの診断だそうで念の為レントゲンまで撮ってもらったのだが大きな問題があるわけではなかった。

ナイポレの収録は無事終了。とてもいい感じになったと思う。

 

14日

部屋の掃除をずーーーーーーっとしている。この日は本棚を動かすため、一度中身をからっぽにして動かしたりしていた。足の踏み場もなかった我が部屋に少しずつ足の踏み場が生まれることに感動する。そして本は少しずつ吸われていくが、行き場のないちょっとしたフライヤー、変わった大きさの書籍などをどうしたらいいのだろう、とまた抱える。シラフのつもりで生きているのだが、ときどきご作動で携帯のカメラが起動したとき、表示されたディスプレイを見て「えっ、こんなに俺の部屋汚いの?」と素直に思ってしまう。普段の私は何を見て、何を感じているんだろうか。シラフで生きてるはずじゃなかったのか?どんなに悲しくなってももうどうにもならない。泣きながら可能な限り部屋の端っこに少しずつものを積み上げていくしかないのか。

 

15日

ガス代が1万円を超えていて泡吹いて倒れる。今までこんなに高い金額になったことがあっただろうか。これからは追い焚きなんてしません。

昔シェアハウスしていた友人たちと久しぶりに会って話す。くだらない話で始まったかと思えば壮年期らしいシリアスな会話にもなる。まさか全員既婚者になるとは。軽やかで重みのある楽しい会だった。部屋に戻って買うだけ買って聴けていなかったレコードを聴きながら掃除の続きをした。

真夜中、風呂を掃除してお湯がたまるのを待っていたら高橋幸宏さんの訃報を受け取った。誰かが亡くなって思えることなんて限られている。悲しい。早過ぎる。元気になってもう一度ステージに立って欲しかった。浮かんでは消える。そんな思いを書くことに意味はあるのだろうか。とにかく悲し過ぎる。私の人生最良の瞬間は2015年の12月。鈴木慶一さんの45周年記念イヴェントでのことだった。ただでさえ天にも昇る気持ちだったのだが、リハーサルに立ち会えなかったアンコール、佐藤優介がアレンジした「エイト・メロディーズ」の演奏が始まった時、どういう訳かドラムのライザー、矢部さんと幸宏さんの真ん中に私がいたのだ。舞台監督の笹川さんからは「ケラさんが入るはずの位置に澤部くんが行くんだもん」とその後なじられたのだが。ともかく、曲は進み、静かなプログラム中心のパートから生バンドも加わるきっかけというのが矢部さんと幸宏さんがたたく(優介が指定したフレーズの!)フィルインだったのだ。あの瞬間、私の身体にはとんでもない衝撃が走り、これまで感じたことのない幸福感に包まれました。本当に素晴らしい瞬間でした。そこに至るための過去の全てが私を肯定してくれていたような気がするのです。あの衝撃はこれ以上言葉にすることができません。その日、牧村憲一さんがFacebookにかかれた記事のリンクを貼らせてください。本当に寂しい。ただただ悲しい。どうしたらいいんだろう。

 

https://www.facebook.com/story.php?story_fbid=pfbid02oaB9xwRrybeQ9hpVZGRjNmJ1JfVn6oeMpB9ZkfRxNwygbxJvk5QVmEnbV8FFuiAMl&id=100001538894988

 

 

サインコ

2日

部屋の外へ出る。あまりにも静かで嬉しくなる。少し前にラジオに出たときに「年始の人がいない東京が好きなんですよね」と言って、そうか、コロナ禍でもう正月に実家帰る人も減っちゃってるのかもしれない、時代遅れなことをいってしまったかも、と思ったのだが、まだ有効だったようだ。もっとも、人が少ない東京、というのは都心のことを指していたはずだったけど。

実家に顔を出す。年齢を重ねるごとに、自分の貯金のなさや、税金の支払いに苦悶し、俺の人生とは、と考えるのだけど、父は若くして家を建てた……俺に、俺の芸術にそれだけの甲斐性があったら、と人知れず嘆く。

 

7日

ドラァグ・クイーンのショウ、オピュランスを観にZepp Diver Cityへ。コロナ禍において私を救ってくれたもののひとつが「ル・ポールのドラァグ・レース」だ。私の抱える(べき)芸術を見つめなおすきっかけにもなったし、大いに影響を受けた。日本では新シーズンすらまともに見られなくなってしまったけれど、それでも4人のクイーンが来日してショウを披露する、というのでウキウキと向かった。最後にZeppに来たのは2019年のTeenage Fanclubだった、ということも思い出す。オピュランスはエネルギーの塊のような場で、きらびやかな世界だった。

 

9日

母と映画を見に行く妻を吉祥寺まで送ってココナッツに顔を出す。金剛地さんに教えてもらったツィッギー主演のミュージカル映画、「ボーイ・フレンド」のサウンドトラックを見つける。新年早々縁起がいいわね。海外の方がクラスターの超かっこいいジャケットのやつを試聴させてもらったあと、元々お店でかけてたスティーヴィー・ワンダー、それも「イン・スクエア・サークル」!に戻った時、海外の方が「クラスターからスティーヴィーなんて繋ぎ、聴いたことないネ」と言っていた笑ってしまった。店を出て吉祥寺の裏道を歩く。廃屋になった一軒家の庭に見事に寒椿が咲いている。それだけなのに心に穴が空いたような気持ちになってしまう。

 

 

地下鉄状

年内、28日までぎっちり入っていたはずの仕事が徐々になくなっていく。ある仕事は先方がコロナにかかってしまったため、ある仕事はひとつ前のやり取りで完結したため。そういうわけであらゆる仕事が少しずつ落ち着いてきて、あまりにも汚すぎる部屋のことを除けば調子はいい。『SONGS』のリリースの間、聴けなかったレコードやCDを聴きながら考え事をしている。松永良平さんに教えてもらったジョン・ブライオンのソロ・アルバムはないちゃいそうになるぐらい最高だった。その勢いで年内積んでいたレコードをいくつも聴いて盤起こしをしていった。ストレスとある程度潤沢な時間が1/6放送のNICE POP RADIOを特別なものにしてくれました。お楽しみに。

 

29日の深夜、モナレコードでうすやまさんのDJパーティ「涙」でDJ。長谷さん、哲人さん、関さんという音楽に愛された人々の選曲を楽しんだ。私のDJもとても楽しかった。大きい音で聴きたい音楽をたくさん聴けた。朝5時の手前、うすやまクラシックでもある「帰れない二人」の「東京上空いらっしゃいませ」ヴァージョンが明け方のモナレコードに響き渡ると眠たいはずのフロアに活気が戻り、多くの人がDJブースに詰めかけた。この景色だ。35にして酒も煙草もコーヒーもたしなめない大人になってしまったけれど、シラフで音楽の効力がねじまがったり、はね飛んだりする瞬間を知ることができた。

 

べろべろに酔った友人が「あのタモリが新しい戦前っていうなんて、モウロクしちまったよ」と言っていて、なるほど、永遠のオルタナティヴ、タモリが今暮らしているなら誰もが感じているはずのことをわざわざ言う、みなまでいうな、粋じゃないね、ということなのだろう、と一度頷いた。別の友人にその話をすると「いや、それをちゃんとテレビで言うのが」と返され、たしかに、と頷いた。

 

去年の年明けにある番組を見て、ずーっとムカついていた。その番組は大好きな芸人をパネラーに迎えたフェイクドキュメンタリーなんだけど、とにかく作りが粗く、ショッキングに見せたいものだけが不必要に浮かび上がる形になっていて、その前後やカメラがそこに在る意味などがなおざりになっていてフェイクドキュメンタリーの中の登場人物にも、それを見てるパネラーにも、彼らを撮っているカメラにすら気持ちが入っていかなく、ただただイラつくばかりだった。そうして友人に会うたび「観た?」と訊いては悪態をついていたのだ。そのテレビ番組を作ったディレクターが、年明けのNHKの特番で「吐き気を催す番組を作りたい」「嫌な気持ちにさせたい」と話されていて、なるほど、と頷いた。