幻燈日記帳

認める・認めない

札幌通信

たらふく飯を食って、凛とした空気を吸い込んで、面倒なエレベーターに乗った。インキーしたと思った鍵は内ポケットから出てきた。まずコートを脱いだ。そしてセーターを脱ぐ。シャツを脱ぎ捨て、ジーンズを脱ぎ捨て、暖かいと思い込んで飛び込んだベッドが冷たかった。声が出そうになった。ここは札幌の宿だ。今日はニューシングル「君がいるなら」のキャンペーンで札幌にいるのだ。


さて、あと数十分でスカートの音源の一部がサブスクで聴けるようになる。なってしまう。ポニーキャニオンに入って何度も話し合い、その度に「やりたくない」と言ってきた。でも時代の流れには抗えなかった。ごく一部の人たちには力不足で申し訳ない、といい、多くの人たちには明るいいつもの顔でよろしくね、と言う他ない。個人の意見だけど音楽は音楽だけでの力は弱い。録音芸術としてのポップ・ミュージックは特にそうだと思う。スカートみたいな音楽性でも作品を作ったという達成感があるのは「パッケージ」に依るものが大きいはずだ。瞬発性に富み、しなやかに時代の波にのまれていく。それはポップ・ミュージックの避けられない宿命だし、それが本質なのかもしれない。しかし、そこに流れていたはずの時間、流れていたかもしれない時間を切り取ることができるのがポップ・ミュージックの醍醐味でもある。録音芸術としてのポップミュージックにとって、サブスクリプション・サーヴィスはどんなものになるのだろう。ポップ・ミュージックのあるべき姿、誤解を恐れずに言うならば読み捨てられる雑誌のようなものにまたなるのだろうか。

スカートはこれまで通り、パッケージにこだわりたい。こだわっていけるならこだわっていきたい。「エス・オー・エス」を作った時、このCDがいつか中古屋に面陳されたらいいな、と思った。物があれば残る。その価値がそこに宿る。そこだけに宿る。それが希望だった。「エス・オー・エス」というのは砂浜に書かれたそれなのだ。メジャーというフィールドで我々が何を問えるか。"compact disc is dead"という言葉が頭を巡る。クラウドの砂浜に我々は何という文字を刻み、どんな顔をして聴かれるのを待つのだろうか。

サブスクリプション・サーヴィスでスカートを知った方々にもいつの日かレコードやCDで音楽を所有するというポップ・アートとしての快楽を知ってほしい。そんな日は来ないかもしれない。無駄な努力かもしれない。それでも我々は(それでも)(いつでも / いつかは)(また)「手でさわって、目でたしかめて、耳できこう」と言いたいんだ。