幻燈日記帳

認める・認めない

aipotu

映画を2本見てきた。1本目はアレサ・フランクリンの「アメージング・グレイス」。アレサを聴き始めたのは本当に遅く、ついこないだだ。亡くなったあとに優介がお悔やみと好きな曲だ、と"Day Dreaming"を紹介していて衝撃を受け、その後、ようやくたった2枚のアルバムを聴くに至り、そうして今回の映画の公開というわけだ。最初はポップ・シンガーとしてしかまだアレサのことを見れていない自分がいることと、信仰がないこと、そして以前の日記で書いたが「アメージング・グレイス」はトラウマがあった(ヌレ・テニ・アワ - 幻燈日記帳)ことから楽しめるか不安だったのだが、信仰がないことをはじめて悔やむほどに力に溢れていて涙が出た。初日が終わったあとの客出しで演奏されるセッションがめちゃくちゃ来た。

2本目はデヴィッド・バーンの「アメリカン・ユートピア」。全員見ろ。以上。で済ませたいがそうはいかない。以下ネタバレだ。映画を観てない人は日記はここでおしまい。全員見ましょう。以上。

 

何度も泣いてしまった。最初は「This Must Be The Place」でバンドメンバーが前に進む中、バーンだけがステージを後ろに向かって進んでいくシーン。大きな影。あんなにかっこいいなんて。シビれちらして泣いてしまった。泣いてしまった箇所はいくつかあったけどもうあと2箇所挙げる。2回目は「Born Under Punches」で大きくバスドラムが鳴り、それがだんだんと「Born Under Punches」になっていくあの瞬間。これはもう音楽を体感するという喜びに打ち震えて泣いた。3回目が「Hell You Talmbout」。人種的暴力(自分にとって適切な言葉が思いつかないから岡村詩野さんがTURNに書いたレヴューから引用しました。映画『アメリカン・ユートピア』より良い社会のためのチアフルな肉体と知性 | TURN)により不当に殺されていった人たちの名前を叫んでいき、ライヴだった画面が突然にライヴではなくなる。人種の問題は私にはあまりにも遠い問題すぎて、どう思うことができるんだろう、と画面を見ていく。そうして音楽は続く。気がつくと涙が溢れている。だが整理がつかない。怒りなのか、悔しさなのか、悲しさなのか、自分でも判断がつかない。広い意味で、これが感動か、これがmoveなのか、とシャツのボタンを外し、内側で涙を拭った。超ライヴで超映画。マジ最高だった。